第4話 とっておきの場所
すっかり遅くなってしまった。用事を片付け戻ってくると、境内で卓也と梓が待っていた。
「すまん、遅くなった。もう六時回っとーばってん……」
どうでも今日行きたいと、梓の目が訴えていた。和尚は溜息混じりに答えた。
「約束やけん、行こか」
卓也と梓に先導され、稲佐山の山道を登っていく。
一時間くらい経ったろうか、流石に六十代の老骨には堪える。すっかり暗くなった空を仰ぎ、まだ着かないのかと訊こうとした時、二人が足を止めた。こちらに走り寄ってきた梓が、震えた手で袖を掴んで言った。
「そ、そこに……」
いるのか。二人を背に前に出た和尚は、辺りを見回した。ぽっかり開けた空間で、暗いせいもあるが、人影は見当たらない。しかし、梓には視えている。暗闇に向かって、和尚は声を掛けた。
「どなたか、そこにいらっしゃるのですか」
「さぶちゃん?」
驚いて、和尚は梓の方を見た。
「お、和尚様を見て、霊がそがん風に……」
視線を前に戻す。自身をそんな風に呼ぶのは、一人しかいない。
「美代ちゃんか?」
返事はない。答えたのは、またも梓だった。
「泣きよー。泣きながら、頷いとーよ」
ゆっくり近付いて行く。やはり何も見えない。本当に、美代子なのか。東京から長崎に越してきて四十年弱、ずっと探し続けていた彼女が、今そこにいるのか。
「俺だ、三郎だよ。美代ちゃん、本当に君なら……」
何かが胸に当たった。人の気配を感じ、立ち止まる。虚空を抱き締めるように両腕を動かすと、さらさらとした長い髪の手触りがあった。懐かしい匂いがした。
さぶちゃん。
心に直接話し掛けるような、音にならない声が聞こえた。和尚は確信した。今この腕の中に、美代子がいる。
力が抜け、膝をつく。重みを感じる右肩が濡れていくのが分かった。
何の気なく麓の方を見て、息を呑む。地上の天の川とも形容すべき神秘的な夜景が、眼下に見えた。
「ああ、そうか。ここか、美代ちゃん。とっておきの場所って」
折角の絶景が、ぼやけてよく見えなかった。
「本当だね。本当に、綺麗だっ……」
声が震える。それ以上は、言葉にならなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます