第35話 あなたと紡ぐ将来
──優月、いいのです。もういいです。
リュカの想いが痛いほど伝わってくる。
優月は絶対に譲らないと、手を離さなかった。
折れたのはナタリーだ。箱を手に取ると、メルシーと呟いて扉を閉じた。
あれだけか、必死の想いで探し続けた息子の想いを蔑ろにするような態度に、優月は扉を叩こうとする。
リュカは優月の腕を掴み、頭を振る。
長い廊下をのろのろと歩き、気づいたら部屋の前まで来ていた。
リュカは振り返る。肩を掴んできて、彼の顔が頬に当たる。
耳と頬の間辺りで柔らかなものが触れ、リップノイズが届いた。
自室へ戻ろうとするリップの足取りは軽かった。
彼を見届けてから、優月も部屋へ入った。
長い長い旅だった。だがリュカは人生をかけた長旅だ。報われたのかどうか、彼にしか判らない。ひとまずは渡せて良かった、という安堵感が押し寄せ、同時に疲れも襲う。
重いまぶたに逆らわず、優月は眠りについた。
お昼近い時間に目が覚めた。
メッセージが端末に残されていて、リュカからだった。
──起きたら返事を下さい。
──起きました! 今からシャワーを浴びます!
おはようのスタンプ付きで返した。
シャワーを浴び終わると端末には、
──食堂で昼食にしましょう。三十分後、迎えに行きます。
珍しいことに、彼からもスタンプが来た。蜂蜜がかかったホットケーキだ。甘い物を欲しているのだろう。
メールが来てからきっちり三十分後に扉がノックされる。
「おはようございます」
目元の腫れもなく、リュカはすっきりとした目覚めだ。
「おはよう、ございます」
「さあ、食堂で昼食を頂きましょうか」
「早起きしました?」
「実は私も寝坊しました。昼食後はここを立ちます。夕方の飛行機に乗って、日本へ帰りましょう」
日本へ行く、ではない。帰る、だ。リュカの日本に対する重みがのしかかる。しかと受け止めようと、元気良く返事をした。
食堂へ行く間、リュカは余計な話はしなかった。それが寂しくて、会話の流れを上手く掴めなくて、もどかしい。
そんな優月の様子に、リュカは笑みを浮かべた。
食事の最中、ケリーが封筒を二つ持ってきた。
一つはリュカに、もう一つは優月へ渡す。
「俺にも?」
裏側を見ると、モニカの名前がある。
視線を感じて顔を上げると、リュカがこちらをまっすぐに見つめている。
「モニカさんのお父さんからです。ファーザーって書いてある。当たり前だけど、全部英語だ……」
「頑張って読みましょう。私はナタリーからです」
今度は優月が驚く番だ。昼食の席だというのに、昨日ナタリーが座った席には何も用意されていない。おそらくすでに家を出たのだろう。
難しい単語を使用せず、優月にも理解できるくらいに優しい文字を綴っている。
最初に謝罪、娘がひどいことをした、チェスを楽しんでいた、そしてありがとう。
惚れ惚れするほど判りやすい、お手本のような英語だ。彼女の父の性格がそのままに表れている。
リュカはちらちらとこちらを伺っている。気になるのだろう。
「謝罪とお礼、それとチェスが楽しかったと書いてます。あと、ブローク? エンゲージメント?」
「ああ、婚約破棄ですね。あっさり認めて頂けたようで何よりです」
リュカはティーカップを口にしつつ、ナタリーからの手紙を読み始めた。
内容は聞かないことにした。母親と息子の繋がりは細く小さなもので、だからこそ邪魔をしたくなかった。
「フランス語ですので翻訳しますと『無くした人形のことはすっかり忘れていました。見つけてくれてありがとう。これからも彼と仲良くしなさい』だそうです。……その顔はなんですか」
「いや……言ってもいいのかなあって。だって大事なお母さんからの手紙だし」
「あなたも当事者で、私にとって他人ではありません。昨日はあなたに勇気の出し方を学びました。いつも私は逃げ腰で、家族もはこんなものだと諦めていたところもあります。これからは勇気を出して、自分から母へメールや絵葉書なども送ってみようかなと思います」
なんでもそつなくこなすリュカだが、母親への愛情を示すときが一番人間らしさを感じた。
大人になりきれていない子供のようで、背伸びをする。気づかないふりをしているのに気づいてほしい。
無意識の中で手が伸びた。リュカの頭に手を乗せ、わしゃわしゃと強く撫でる。
リュカはしたいようにさせて、目を瞑っていた。
特別な一年になるであろう、大学四年生。
居間でお茶をすすりながら、うんうんと唸っていた。
父からの電話で「将来はどうするのか」という難題を突きつけられた。
優月は今までの人生において、必要なものや死ぬまで大事にしたいもの、好きなものをあげていく。
リュカ、歴史、考古、逃れられない運命。
もう他の生徒たちはやりたいことを決めて、夢に向かって進んでいる。
「うーん」
「ずっと唸っていますね」
風呂上がりのリュカがやってきて、ちゃぶ台を挟んで前に座った。
「ハーブティーにします?」
「あなたと同じものを」
珍しいこともある。暖かな緑茶を入れてリュカに渡し、ついでに自分の分も入れた。
「お父上の電話を取ってから、悩み始めましたね」
「そうなんですよ。将来はどうするかって話だったんです。親としては地元に帰ってこいってちくちく言ってはくるんですけど、俺は嫌だし」
「あなたが本当にやりたいことを見つけるまで、うちで修行をしませんか?」
「前にイタリアの月森さんの元で……って話ですか?」
「そうです。修行内容は、主に雑用が多かったです。商品の掃除は基礎で、材質や年代など、物に触れることでいろいろな情報を読み取る力が蓄えられます。師匠に話を通したら『面接は終えていますから、あとはそちらで決めなさい』だそうです」
「面接?」
面接をした記憶がなく、優月は首を傾げる。
「『お人柄はよく判りました』と。イギリスで会い、もう充分にあなたのことを知ったと笑っていました」
「イタリアか……」
大学を卒業したら、リュカの元ではなくイタリアに住まう月森の元へ行き、長い間そこで住むことになる。
「リュカさんはずっと日本にいるんですよね」
「そうですね。こちらが私の家ですから。ただ日本各地や世界を飛び回ることもあります。師匠にも会いに行きますし」
「この件は父さんに話してみます」
のらりくらりと交わしていた将来だ。父に話せるときが来るとは思わなかった。
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