第32話 月の満ち欠け
「リュカ、落ち着きなさい。有沢さんの意見はどうなるのです?」
「どうもこもうも、私が巻き込んでしまったのですよ」
「有沢さんはリュカと共に行きたいのですね?」
優月は力強く頷いた。
「有沢さんはすでに巻き込まれていますよ。右頬を殴られるくらいには。これで関わるなと言われても、誰が納得しますか」
「しかし……」
「本当に巻き込みたくなければ、また有沢さんが殴られそうになったらリュカが盾になりなさい。それが守るということです。生半可な覚悟で大事な者を隠そうとすれば、モニカならばまた有沢さんを狙いますよ」
「……判りました。優月と共に向かいます」
月森とリュカは強く強く抱き合った。
リュカよりも背が低いが、月森は手を伸ばしてリュカの頭を何度も撫でる。
親が子供を撫でるような、暖かな手だった。
森の中へ進むのはトラウマに似た感覚に襲われるが、今は隣に頼もしい人がいる。
「お城だ。初めてみます」
「大して良いものではないですよ」
「リュカさんは見慣れているからじゃないですか? 西洋の城って甲冑や絵画が廊下に並んでるイメージです。あと庭に噴水とか」
「甲冑はありませんよ。絵画はいくつか飾っています。噴水もあります」
リュカはタクシーに城の前で停めるよう伝えた。
「ここからは敷地内ですので、タクシーはここでストップです。しばらく歩きます」
リュカの後をついていくと、向かう先は城がある方角だ。
「どこへ向かってるんですか?」
「甲冑のない城です」
「……リュカさんの家に行くんですよね?」
「ええ。あの城ですね」
城とリュカを交互に見る。
「もしかして、お貴族様だったり?」
「私は貴族ではありませんが、先祖が貴族に当たります。先人が城を買ったらしく、末裔である私の実家となります」
「嘘でしょ……住む世界が……」
「違うとでも? 私は囲炉裏のある家で過ごす家の方が好ましく思っていますよ。城は身の丈に合いません」
誰に命令されたわけではなく、彼は日本を住まいとして古民家を購入した。庭で畑を作り、苺の栽培も熱心に挑んでいる。
リュカの憧れが詰まった姿だ。すべてを持っていそうで、寂しくて空っぽな人。
「俺、リュカさんのことを満たしていますか?」
「あなたがあの家に住んでくれて、私は幸せですよ。もっと幸せを求めるのなら、苺がしっかり実ることですね」
城の門まで着くと、リュカはボタンを押す。英語で話した後、門が開いた。
「モニカさんもいるんですよね」
「ええ、ゲストルームに待機しています。モニカよりも先にオリバーときっちりお話ししましょう」
にっこり笑うリュカの背後には、どす黒いものが溢れている。
重厚な扉の先には、笑い皺を絶やさず作る女性の姿があった。
リュカは親しげに彼女の背中へ手を回した。
「彼女は私の乳母です。ケリーにはあなたのことを話しています」
「初めまして。優月といいます」
優月は英語で挨拶を交わす。乳母は心から喜んでいるようで、優月の手を掴んではしばらく離さなかった。
「ん? なんて?」
乳母のケリーの目には涙が浮かび、ハンカチを目に当てている。
英語は完璧とは言えずリュカに聞き返すと、彼は無言を貫いている。
「やあ、来たんだね!」
奥の階段からオリバーが降りてきた。
「有沢君、すまなかったね。まさかこんなことになるなんて」
「判っていてモニカと引き合わせたのでは?」
「失敬すぎるだろう。ルークが思うようなことは一切ない。モニカは君のご友人にとても興味がおありのようだ」
「あなた方の動向を把握しきれなかった私の責任でもあります」
「まずは有沢君をゲストルームへ案内したらどうだい? 話はそれからでもできるよ」
「そうですね。優月、ご案内します」
「ありがとうございます」
階段を上ると、長い廊下には赤紫のカーペットが奥まで敷かれている。甲冑はないが、絵画や花が飾っていた。
「家の中で流れる滝って初めて見ました。夏場だと涼しくていいですね」
「滝ってほどでもないですよ。水がちょろちょろ流れているだけです。ですが、透き通った水を見ていると安心をもたらしてくれるというか、気持ちが和らぎます」
リュカは井戸にもこだわりがあるように見えた。手間が大変なのと猫が落ちる心配があるため蓋をしているが、本来なら使いたいのだろうと察する。
「どうかしましたか?」
「井戸が使えないなら、ソーラーポンプはどうかなあって……。リュカさん名残惜しそうだったし、もったいないと思ってたんです」
「ポンプですか。江戸時代のドラマで見たことがあります。手や足で動かし、消火作業をしているシーンがありました。庭に設置するのもありですね」
ゲストルームには、大きなベッドにソファーやテーブル、奥の部屋にはトイレやシャワールームもあった。
「ここ、一人で使うんですか?」
「ゲストルームですから。ほしいものがあれば遠慮なくベルを鳴らして下さい」
壁にベルがつけられていて、管と繋がっている。先代が城を購入したときのままにしているのだろう。
荷物を置いてリュカとともにロビーへ行くと、モニカがいた。
彼女はリュカを見るなり胸に抱きついた。モニカの腕はリュカの背中へ回るが、リュカはだらけたままだ。
「モニカ、離れて下さい」
「どうしてその男を連れてきたの?」
「彼は私の大切な人ですから当たり前です。それより優月へ言うことはありませんか?」
「ないわ。出ていってもらったら?」
英語で所々しか判らないが、自分の話をしているのだと理解する。そしてリュカは拳を作り、微かに震えていた。
「まあまあ、ルークもモニカも落ち着いて! そうだ、チェスでもして楽しんだらどうかな?」
珍しいことに側にいたオリバーは助け船を出した。
案内された一階の部屋は広く、ダーツやビリヤード台、アルコールの飲めるスペースもある。
「私、ゲームには自信があるの。勝負してみない?」
簡単な英語だったので、優月は「喜んで」と答える。
「ただのゲームはつまらないわ。なにか賭けをしましょう。私が勝ったら、二度と私のルークに近づかないと約束して下さらない?」
「……なんて言ってます?」
リュカが訳そうとしないの問いかけた。
ただし彼女の口調から、あまり良い予感はしない。
「賭けをしましょうと言っています。モニカが勝てば、二度と私に近づくな、と」
「俺、リュカさんやモニカさんみたいに良いとこの育ちじゃないですけど、大切な人を賭けの対象にするような育てられ方はされてないです」
「ごほっ」
リュカは飲んでいたお茶でむせ、優月はハンカチを差し出した。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫……です。思いのほかくるものがあったといいますか……。それを私が訳せばいいのですね?」
「お願いします」
リュカはハンカチで口元を覆い、何度か小さな咳をした。
形の良い唇から流暢な英語が飛び出す。
イギリスに来て思ったことは、癖のある英語を話す人が多いということだ。日本でも、とくに優月の住まう東北では強い訛りがあるが、それはイギリスも同じだ。
だがリュカはとにかく綺麗だ。顔も、唇も、言葉も。
案の定、モニカの顔は赤く染まっていく。
彼女は怒りっぽい一面があるが、大人が自分の感情をコントロールできないというより、子供が地団駄を踏むに近いものがある。そして思い通りになると思っている一面がある。
彼女が怒り出す前に、優月が先に口を開いた。
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