私の春の夢

大出春江

私の春の夢

 時計の秒針は自己を中心として周りを急かす。

 夕陽の差し込む一室で目が覚める。


「あ……すみません。おやすみでしたか?」


 深山明莉は申し訳なさそうな顔でこちらを覗く。


「——いや、少し仮眠をとっていただけだよ。こちらこそすまない。みんな忙しくしているというのに」


 姿勢を正し、パソコンのモニターに向き直る。

 コーヒーを一口飲んでいざ業務を、といったところで深山が割って入る。


「ダメです。院長は私たち以上に働き詰めなんですから、今日の業務は休むことです」


 モニターを遮られてはどうしようもない。


「……わかった。ありがとう」


 苦笑いを浮かべて軽く目を閉じる。


 大学を卒業して今年で三十二年。

 児童養護施設の職員として働き続け、今では院長として任されることになった。


 外部の人たちと話す機会は増えたものの、施設内でのコミュニケーションは減ってしまい、以前の方がある意味で楽しかったような気もする。

 しかし、今の仕事が周りから認められ任された結果であることは間違いない。

 院長の立場から得られる経験も存外悪くないだろう。




 ガチャリ


 扉が開く。

 子どもが一人、部屋に入ってくる。

 すかさず深山が駆け寄る。


「朱音ちゃん。どうしたの?」


 逢坂朱音(オウサカアカネ)。

 私が院長になった直後に入所した女の子。

 今年で小学校二年生だと聞いていた。


「――きになって」

「気になって……この部屋が、かな?」

「うん」


 目の前の深山を気にも留めず、周りをグルグルと見渡す。


「ごめんね。ここは院長先生のお部屋だから、入っちゃだめだよ?」


 そういうと朱音の頭をポンと撫でて、促すように部屋を出ようとした。


「――ちょっと、待って」


 二人を制止すると近くまで歩み寄りしゃがみ込む。


「部屋を見たいの?」


 朱音は少し間をおいて頷く。


「好きに調べていいよ」


「……いいの?」

「院長、いいんですか?」

「私たちが同伴していれば問題はないよ。そして、なにより――」


「好奇心は何よりも勝る、だろう?」


 朱音の瞳が輝いたように見えた。




 それから小一時間、朱音は部屋を細部まで見て回った。

 正直、部屋を見るとはいっても、ものの数分で飽きてしまうだろうと思ったが、知識欲とは恐ろしい。

 招き入れたのはいいものの、これには流石に驚いた。


「いんちょうせんせい」

「どうしたの?」


 本棚を指さす。


「この本だけちがう」

「あぁ、これはね。他とは違って、小説だから」

「よみたい」

「難しい漢字も多いよ?」

「わからなかったら、聞く」




 その日から、朱音は頻繁に部屋を訪れるようになった。

 部屋に居座って漢字とにらめっこする日もあれば、小説だけ借りに来る日、単語や表現の意味を聞きに来るだけの日もあった。


 そうして、月日は流れる。




 扉が開く。


「先生、今いい?」

「構わないよ。返しに来たのかな?」


 時間の流れは想像以上に速い。

 来月から、朱音は高校に入ることになる。

 同時に、施設を出ることになる。


「うん。——全部読んだから感想も伝えたいと思って」

「おお、そうか。きっと作者も喜ぶだろうね」


 朱音は本の表紙をちらりと見ると目を細める。


「名作じゃない、けど大好きな話だった。——きっと、作者は書きたいことを書ききったのだと思う。今日まで何度も読み返して分かった。拙い文章も混じってるけど、誰に媚びるでもない、作品への愛だけで書き上げたのかも、と思った。……『私の春の夢』ってタイトルも、きっとそういう意味、かな」


「……凄い、そこまで分かるものなんだね」

「三年間、ずっと見てたから。小説も——先生のことも」


「私?」

「作者、先生なんでしょ?」




「どうしてそう思うの?」

「院長が若いころ、北海道に住んでたって深山先生から聞いた」

「まぁ、それは事実だね」

「院長がたまに旅行に行くと、北海道土産が出てくる」

「北海道が好きだからね」

「あと——手編みのマフラー」

「それは……。そうだね、正解だよ」


 わざと隠していたわけではない。

 ただ、内容が内容だけに面と向かって伝えようとは思わなかった。


 朱音は満足げな笑顔を見せるが、どこか寂し気に映った。


「先生、この話の桜さんって……」

「想像通り、だよ」

「そっか……」


 小説を棚に戻す。

 朱音は本棚を遠目に眺めると、一冊取り出した。

 頁をめくる。


「これ、少し、見てもいい?」

「構わないよ」


 開いた頁に挟まっていた茶封筒、そこから手紙を取り出す。




 五分ほどだろうか。

 私は何故だか少し緊張して、読み終わるのを待った。


「小説の『私の春の夢』って、先生が考えたの?」

「いや——桜が考えたものだよ」

「やっぱり、そうなんだ」


 手紙を読み終え、本棚に戻す。


「先生は、タイトルの意味をどう捉えてる?」

「そうだな……、内容のほとんどは大学時代のものだし、そういう意味の青春って感じかな」

「私も同じ。だけど、もう一つ思いついたんだ」




「桜さんの心が初めて救われた瞬間っていつだと思う?」

「それは……高校三年の夏――」

「違うよ。きっと」


 朱音は窓の外を指さす。


「春、なんだよ」

「春?」

「二人が初めて言葉を交わした日。高校一年の春なんだよ、きっと」


 二人が言葉を交わした日。

 恋仲には至らない間柄。

 しかし、その始まりこそが、桜にとっての夢のひとときだった。


 いつぶりであろうか、彼女からの新たな言葉。


「……なんて、部外者の浅い考えかな」

「そんなことはないよ。――本当に、ありがとう」

「そっか……あと、もう一つだけ」


 そういうと一歩後ろに下がる。


「先生、今までありがとうございました」


 今度こそ、曇りひとつない笑顔を見せる。


 決して重ねた訳では無い。

 だが、微かに彼女を思い出した気がした。




 思い出は優しさの光に包まれて、いつしか薄明かりにぼやけるのだろう。

 粉雪のように細やかに、羽ばたく蝶のように柔らかに。

 それでも、どうしても忘れられない記憶が脳裏に焼き付くので。


 故に、桜は美しく咲く。

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