雪解け

大出春江

雪解け

 大切な人が、もし亡くなってしまったら。

 亡くした大切な人が、何事もなかったかのように目の前に現れたら。

 安堵するだろうか。

 恐怖するだろうか。



「久しいね」


「お久しぶりです」


 久しぶり、と言われたから、久しぶり、と返す。

 新橋桜は微笑んで近づいてくる。


「何カ月ぶりだろう?」

「あなたが亡くなったのが大学二年の終わり頃、来月から大学四年生ですから、一年半も経たないくらいですかね」

「おや、留年しなかったとは感心感心……」

「当然のように化けて出るとは、なんとも、あなたらしい」


 少し間が開いて、二人で吹き出すように笑い出す。

 極めて奇妙に、そして懐かしい感覚。


 懐かしい人を目の前にして何を話そうか。

 そう考えていた時、目に入ってしまった。


「桜……それは——」


 桜の姿は、命が失われたあの日から何も変わらない。

 ある一点を除いて。


「あぁ、煤けてしまうかぁ……やはり」


 指先から徐々に薄黒く変色していく。


「ちょっと待っていて、助けになってくれる人に変わるよ」


 桜は後ずさりするとフッと消えてしまった。

 瞬間、右側超至近距離から話しかけられる。


「お初にお目にかかる」


 驚いて咄嗟に距離をとる。


「おや、桜から聞いていたより随分と小心者のようだな」


 地面につきそうなほど長い美しい銀髪が真っ先に目についた。中性的に見えるが、女性だろうか。背丈は並みほど、巫女服から感じるシルエットは不安になるほど細く華奢。

 しかし、肌で感じる空気感とでもいうのだろうか。そこに立つ人型のそれが人ならざるものであることは直感的に理解した。


「急に耳元で話しかけられれば、誰だって驚きますよ」

「新橋桜は、驚かなかったがな」


 それは彼女が特別なのだろう。

 いや、そもそも彼女にも同じことをしたのか。


「では……これでどうだろうかな。最近の流行りだそうだし、我も存外気に入っているのよ」


 輝く銀髪に狐の耳がぴょこりと生える。

 流行りというと少し古い気もするが、人ならざる者とするならば一年も十年も大差ないだろう。


「もしかして、先程の白狐はあなたですか」

「いかにも。……連れの女は奥で遊ばせている。安心せよ、危害は加えぬ」


 そういうと、こちらに一歩詰め寄る。


「早速だが本題に入ろう。——おまえは、新橋桜と再び話がしたいのだろう?」


 頷く。


「先程の桜を思い出せ。この世界に肉体を持たぬものはあのように煤けてしまう。それが続けば魂に大きな負荷がかかることは避けられん」

「でも、対処のしようはあると」


 白狐はニヤリと笑う。


「対価だ。おまえが対価を支払えば我がどうにかしよう」


 何となくそんな気はしていた。

 神仏が一個人に手を貸すことは無い。もしも、そんなことがあるのなら、こちらも何かを失わなければ成立しないのだろう。そう直感していた。


「……記憶だ。おまえの記憶が欲しい」

「記憶、ですか」

「一度に多くは引き抜かん。おまえの生涯をかけて少しずつ……少しずつ、な」


 この際、自身の記憶など、どうでもよかった。しかし、ただ一つだけ確認せずにはいられない。


「桜との記憶はどうなりますか?」


 白狐は真面目な顔をしてこちらの顔を覗き込む。


「一つたりとも奪わない、とは約束できない。――だが、桜には我も恩がある。最大限、善処しよう」


 そこまで言うと、こちらに手を伸ばす。


 私は、差し伸べられた手を握った。


「交渉成立、だな。……良き時間になることを祈ろうではないか。では――」


 瞬き一つ。

 瞬間、目の前の白狐はいなくなっており、私が手を握っていたのは桜だった。


「記憶、本当に良かったのかい?」

「人生を賭けるに値する時間ですからね。実に合理的な判断ですよ、これは」


 日の高さ、流れる風の香り、気が付かないうちに周りは真夏の景色に様変わりしていた。




 二人、境内の階段に腰掛ける。

 先程まで雪解けの空気が流れていたにも関わらず、乾いた熱気も蝉の声も不思議と違和感はない。


 桜が口を開く。


「そういえば……君、明莉ちゃんと一緒に来たんだね。――もしかして……!」

「残念ですが、その予想はハズレですよ」

「ふむ、そうか。……でも、明莉ちゃんは君が好きみたいだけど」


 深山さんが私に好意を抱いている。そんなことがあるのだろうか。それなりの付き合いではあるが、その可能性は考えたことがなかった。


「おや、君にも鈍感さというか、直感が働かないところがあるのだね」

「私は元々こんなものですよ?」

「なに、謙遜しなくたっていいのだよ」


 その時、思い出す。

 危うく伝え忘れるところだった。


「桜、伝えたいことがあるんです」

「……なんだろうか」


 軽く呼吸を整える。


「あなたに会えて本当に良かった。私が、今こうして考え、学び、成長出来ているのは間違いなく桜のおかげです。……ありがとう。心から愛しています」


 桜は目を大きくする。それがほんの少しだけ潤んで見えた。


「……いや、驚いたなぁ。でも、そうだな……ありがとう」


 軽く動揺したように見えた。

 桜の視線が逸れる。


「そうだ! 君、進路はどうしたんだい。進学だの就職だの、そういう季節だろう」

「あ、ええ、確かにそうですね……」


 私も思わず視線を逸らす。


「……実は、ちょっと悩んでるんです。就職しようとは思うんですが、自分に合ってる仕事、というのが分からなくて」


「へぇ……そこも、意外に鈍感なのだね」


 興味深い言葉が飛び出す。


「君、人に尽くす事ができる珍しい人材なのだよ?」

「人に尽くす?」


 桜の手が触れる。


「会社や企業じゃない。人と人が密接に関わり合い、人に尽くせる仕事。例えば児童養護施設みたいな、そんな距離感の仕事。長年見てきた私からすると、間違いないね」


 それは盲点だった。

 今までに業界研究や企業セミナーなんかはいくつも参加したが、その発想はなかった。


「……それ、面白いですね。凄く……凄く、面白い発想だと思います」

「なにも、そうしろと言ってる訳じゃない。死人に口なしとも言うし。……でも、一つの参考になるなら、なによりだよ」


 これはいい話を聞いたと、そう思うと同時に、ふと気になったことがある。


「桜はどんな仕事をしてみたかったんですか?」

「死人に口なし、と言うだろう?」

「当ててもいいですか?」


 茶化そうとする桜に追撃する。

 何となく、想像できたから。


「孤児院、養護施設。そういうところですよね」


 桜は大きくため息をつくと、バツの悪そうな顔をして私の頭をガシガシと撫でた。


「あーあ、正解だよ。全く、まさか死んでもなお、君に見透かされるとは……ね!」

「桜……今まで言いませんでしたけど、あなた、私の前だと隙だらけですよ?」

「そういうのは早く言ってくれ」

「それは、面目ない」


 二人して笑う。

 ただ、それだけのことが何よりも嬉しかった。

 そして、それが永遠ではないことも理解していた。


 細く柔らかい指先が、少しだけ、ほんの僅かに煤けて見える。

 桜も気が付いたのだろう。頭をやさしく撫でなおすと、寂しげに手のひらを離した。




「さっきは……すまなかった」


 突然謝りだす桜に驚いた。


「君の、意を決した告白を誤魔化してしまった」

「別にいいんですよ、そんなこと」


 桜の視線がフッと逸れる。

 私もその先を追う。


「明莉ちゃんと君がここまで来たのは、おそらく狐のおかげだね?」


 桜は遠くを眺めるようにして目を細める。


「すっかり忘れていたんだけどね。昔……小学生の頃だったと思う。日の暮れ始めた塾の帰り道。道の真ん中に狐が倒れていてね。君も知っての通りだが、北海道で狐やらリスやらが道端で死んでいることなんて日常茶飯事だ。でも——その日はたまたま、助けたくなったんだ。草むらまで動かして、ナナカマドなんかを集めたりして、しばらく祈って」


「それが、あの白狐……」


「私が死んで、体が軽くなったと思ったらね、狐が現れたんだ。——未練があるなら叶えるってさ。でも、未練なんてそんな大それたものはなかったから、思ったことを呟いた。そして……今に至るわけだね」




 桜は立ち上がると足取り軽く歩き始める。

 一歩、二歩と歩く度に周りの景色が、季節が変わる。

 本殿の目の前まで来たとき、桜並木が輝いて見え、足が止まった。


「もうそろそろ、時間みたいだ」

「そう……ですね」


 桜はこちらに振り向き、顔をじっと見つめた。

 途端に笑い出す。


「ど、どうかしたんですか?」

「い、いやいや……君があまりにも格好よく見えてしまってね! ——悲しい顔は、しないのだね」

「まあ……そうですね」


 悲しい顔などする筈がない。


「あなたの残した言葉と思い出が私を成長させたんです。今更、寂しく喚くなんてできませんよ」

「……やっぱり、君の恋人でよかった」


 桜は両手を広げて、天を仰ぐ。


「終わりにしよう!」


 目一杯抱きしめ合う。

 この瞬間を、たとえ何があっても、忘れることはない。絶対に。




「目を閉じて。あの日を思い出すだろう。君を連れ去って、目隠しをして、恋仲になった、あの夏を」


 薄暗い。

 まとわりつくような夏の空気。

 西日が深く差し込んで伸びる影。

 高校三年の終わり、あの夕暮れが脳裏によみがえる。




「私、面倒な彼女だったろう? 人前では完璧に見せて、君の前では隙だらけだ。考え事にふけることも多かったし、君をよく振り回したと思う。そのくせ、君が好きで好きで仕方がないのだから」


「そんな桜も好きだから、あなたはあなたのままで、それが素敵なんです」


「……君はもうわかってるだろうけど、最後に伝えないとね。――——憎むだけでは成長できない。何かを愛し、人として強くなるんだ。学ぶことを忘れるなよ? ――そして、私以外の、誰かを見つけて、ね……」


「最後のは――?」


「半々かな、想像に任せるよ」


「半々どころかジュウゼロだと思うんですが」


「どうだろうね……ま、でも」


「でも?」


「…………もっと、一緒にいたかったなぁ……本当に、本当に、ずっと……」


「最後にそれは……なかなか、ずるいですね」


「愛しているよ。死んでもね」


「……変わらぬ愛を、誓います――」




 愛してる。

 口に出そうとして涙が止まらなくなった。

 桜はただ頭を撫でて、顔は見えずとも、どこか満足気に——。




 気がつくと地べたに寝転がっていた。

 雪解けと雨水でベチャベチャになった砂利の上。その割に、体が重たい訳でも無く、自然と立ち上がる。


「深山さん大丈夫ですか?」


 同じく地べたに転がっていた明莉の肩を揺する。


「お兄さん。……ここは?」

「稲荷神社みたいだね。かなり小さいけど」


 明莉のコートの濡れ方から、雨の中走り回ったのは夢ではないようだ。


「わたし……白い狐を追いかけて、それで——」

「——それで?」

「よく、覚えてないんです。でも……良い夢を見ていた気がします」

「……私もだ」


 雲間から差し込む光が水たまりを輝かせる。

 虹が見えるだとか、そんなことはない。

 澄み切った空気が肺を膨らませる。


 冬は名残惜しくも春に溶け込む。

 

 ただ一歩踏み出すだけの勇気を残して。

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