円環からの手紙

大出春江

円環からの手紙

 宙を舞う雪虫は次第に消え失せ、空から包み込むような粉雪が降り始めた十一月の中旬。私は一人、電車に揺られ旭川に向かっていた。

 じっとりと張り付くような暖房の温かさに軽い煩わしさを感じながら、カバンの中から二通の封筒を取り出した。


 飾り気のない茶封筒。

 今から一年ほど前に亡くなった彼女が私に宛てて書いたものである。


 この封筒を手に取るたび、無機質ながらどこかぬくもりを感じたような気がして、今も彼女が、新橋桜が生きているのではないかとさえ錯覚する。

 一通目の手紙には当時の彼女の近況と、その心の内が綴られていた。

 二通目は、まだ読んでいない。というのも、一通目の手紙にはもう一枚のメッセージが同封されていたからである。


『追伸 二つ目の封筒は、君が納得しきった時に、旭川駅にて読め』


 彼女がどんな意味を込めて二つ目の封筒を残したのか。それを確かめるべく、彼女を失った一年というタイミングで旭川に向かっているのだ。




 道中は彼女のことばかり考えていた。


 長く美しい黒髪にのぞかせる粉雪のような横顔、硝子細工のような美麗さは一度触れてしまえば簡単に壊れてしまいそうで、ほんの少し怖かった。

 けれど、そんな見た目とは裏腹に彼女という人間は誰よりも強かった。


 高校入学初日に生徒会に誘ってきたのは彼女だし、とんとん拍子に生徒会長に上り詰めて、上級生下級生問わず周りからの信頼も厚かった。

 挙句の果てに、告白をしてきたのも彼女だ。そんなことを言うと「いいや、告白してきたのは君のほうだろう?」なんて返されるだろうけれど。


 彼女は、付き合う前から何となくは分かっていたが、天才だった。知識量がどうのという話ではない。頭の回転が速く、学ぶことを誰よりも喜び、加えて運動もできた。しかも、それだけの才能を持ちながら、驕らず、努力を惜しまなかった。言うなれば「努力もできる天才」である。


 彼女はそんな人だった。

 そうやって新橋桜の人物像を一つずつ思い出す度ほんのりと心が温かくなり、それ故に失ったことがあまりに悔しく、ぬくんだ心がすっと冷めてしまうのを感じた。




 そうこうしているうちに駅に着く。

 ホームに降り立つと、驚いた。ステレオタイプの思考というのは恐ろしい。


 旭川といえば何となく「田舎町」といった印象があったが、ホームに立つだけでわかる、活気づいた雰囲気、人混みで地が揺れる感覚。そんな空気に身を任せて改札を出る。

 抜けるような明るい空間に煉瓦と木目の色合いがよく合う駅。

 家を出るのが少し遅れたため日も暮れてきていたが、逆にそれが良い。伸びる人影も、決して寂れたという意味合いではない、良い意味でノスタルジックな情景に感じさせる。


 外に出ると川が流れていた。ああ、きっとここだと、そう思った。




 川沿いのベンチに座り、息を整える。

 コンビニで買った麦茶を三口飲んで、ため息をついて、もう一度息を整える。


 封筒を取り出す。

 彼女が亡くなってから何度か身の回りの物を整理しに彼女の実家や住んでいたアパートに赴いたが、遺書や書置きなどのそれらしいものは、この二通の封筒しかなかった。


 一通は既に読んでいる。

 つまり、彼女からの「新しい言葉」というものは、この最後の封筒をもってして、今後永遠に無くなるということを意味していた。


 私は、きっと怖かったのだと思う。

 これで最後だということが、何よりも。だが、ここで開くことを躊躇えば、それこそ、今後二度と開ける機会を逃すのではないかと思う。


 だから、今ここで、開くのだ。




『親愛なる君へ


 まさか、本当に私が、新橋桜が亡くなってしまったなんて。君も驚いているだろうけど、私だって負けず劣らず、驚いているよ。だなんて、ちょっと不謹慎かもしれないね、ごめん。


 この手紙を開くときは君が「納得」した時、加えて場所は旭川駅だったね。

 予想でもしてみよう。

 この手紙を読んでいるのは、指示通りに旭川。君のことだから風通しのいい絶好のポイントを探し当てたのではないかな。川が流れていて、人通りからは少し離れていて、空は広いけどそのぶん草木の緑がよく映える。そんな場所。


 けれど、きっと君は「納得」はできていないのではないかな? 「読む機会を作らねば先延ばしになる」とそう思いながら読んでいるのではないかと思うのだが、どうだろうか。まあ、そんなことはどうでもいいか。


 君が何時ごろ駅に着いたかはわからないけど、旭川駅はどんな感じだろうか。私が初めてこの駅に来たのは大学一年の夏ごろで、夕方の通勤ラッシュに鉢合わせて中々大変だった。旭川駅とはこんなにも綺麗なのだね、正直驚いた。まあ、これもどうでもいいかな。


 本題に入ろう。

 この手紙で君に伝えたいことは、それこそ遺書っぽい相続の話だとかそういうものでは決してない。


 君は、私を忘れるべきだと思う。少々厳しい言い分だろうが、どうか最後まで読み切ってほしい。

 愛しいものを失う気持ちはよくわかっているつもりだ。私がどれだけ君を愛しているのか、君が私をどれだけ愛してくれていたのか、どちらもよくわかる。

 しかし、愛するものを失った先で君が迷い続けるのならば、大きな問題が付きまとってしまう。


 「何を学び、何を繋げるのか」


 人間が学ぶ生き物だからこその良さであり、弱点でもある。私自身そうだった。小さい頃に家族全員を失って、それでも生き続けた。

 しかし、時たま思うのだよ。私は、家族から何を学んで受け継いで、先に残せるのかと。そう考えると恐ろしくて堪らなくなる。

 何も少年漫画のような意志を受け継げだとかそういう話ではない。ただ、人間は次の世代に、個々人の遺伝情報以外にも様々な情報を託し、受け継いでいく。


 それが、私はできたのか、この先できるのか、不安で堪らない。

 だからこそ思う。私は君に何かを繋げられたのだろうか。そうでなければ、君をただひたすらに悲しませ続けることになるだろう。

 一つ目の封筒のメッセージに書いた「納得」というのはこの事なのだよ。君が、新橋桜という今は亡き恋人に対して真摯に向き合って、その先で決別すること、既に亡きものとして、「さようなら」と納得するということ。


 もしも今の君が、その「納得」を感じているのなら、私は思い残すことは何も無い。

 ただ、そうでないのならば、君はこの手紙に沿って、どうか私を忘れてくれ。


新橋桜より』




 手紙を読み終わった時、私はただ微笑んでいた。

 彼女の優しさと嘘を理解したから、だから悲しくはなかった。


「桜さん。正直驚きました」


 独り、呟く。


「確かに、この手紙を読み始めた時、私はあなたの言う「納得」をしていなかった。だって、あなたを何よりも愛しているから、だから怖かった。

 怖いけど、不安だけど、それでもと思って家を出て、日も落ちかけた頃に駅に着いて、人混みは好きじゃないからと街とは逆方向に駅を出て、川が流れて空気がサッパリとして、清々しさを感じた時、全部あなたの予想通りだろうとそう思いました。

 でも、驚いたのはそこじゃない。


 あなたは、桜さんは、嘘をついているから。

 全部が嘘じゃない事は分かってます。桜さんが家族のことで悲しんでいたのも、私に忘れるべきだと言ったのも、きっと本当でしょう。

 でも、あなたが最後に言った「どうか私を忘れてくれ」というのは、嘘です。


 桜さんが私を思ってくれていたように、私もあなたを思ってましたから、それくらい理解しています。

 この言葉の意味、それは「忘れてくれ」ではなく「忘れないでくれ」でしょう?

 

 手紙を読んでいて、少し気がかりだったんです。桜さんが「家族から何を学んで受け継いで、先に残せるのか」と綴ったのは、その不安も含めて本心でしょう。

 けど、もしそうであるならば、あなたは人生の最後の最後に、こんなものを残さない。

 亡くした家族から受け継いだもの、桜さんがそれに最後まで気づけなかったとしても、決して、「受け継いでいない」なんてことはないんです。であれば、あなたを失った私が、その足跡を心に残して前に進めば、たとえ気づくことがなくとも、桜さんとその家族の繋がったものは私の中に受け継がれて、私はそれを先に繋げられるんです。


 あなたはそこまで気づいていたはずなんですよ。私の愛しいあなたなら。

 それに、おかしいじゃないですか。


 手紙が、ところどころ滲んで。これ、涙でしょう? 私はこれに驚いたんです。あなたも、こんなにわかりやすい嘘を、それも最後の最後に残すんだなと――」




 カラスが鳴く。

 ふと我に返り頭を上げる。

 夕陽が深く色を落とし、川面に反射したそれが優しく包み込むように辺りの枯草を輝かせる。


「……なるほど。確かに、これも――」


 太陽が燃え、光は届き、川面を照らし、世界に温もりを広げる。

 優しく力強いその光景を、太陽自身は気づく余地もない。


「あなたがいたから私はここまでやってこれたんですよ。だから、申し訳ないけど、忘れたりしない」


 立ち上がる。手紙を封筒に戻し鞄にしまう。

 乾いた冷たい風が粉雪を巻き上げる。

 秋の終わりとは思えないほど清々しい気分を覚え、深呼吸をしてコートの襟を正す。


「新緑が映える頃、もう一度ここに来ます。落ち葉模様も悪くないけど、あなたが――桜が見た景色も気になりますからね」


 鞄を手に取り駅の雑踏に紛れていく。

 心の拠り所が、自身の背をほんの少しだけ高く思わせた。

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