小満

大出春江

小満

 北の大地、五月半ばの頃。


 緩やかに暖かくなる日差しに見惚れていると、頬を掠める風は冬の終わりを惜しむように最後の抵抗を見せる。

 北風と太陽とはこんな日和を指す季語か何かではないだろうか。


 大学の帰りに町中を歩いていた時、それに出くわした。


 何かが香ってきそうなほど懐かしい雰囲気を醸し出す駄菓子屋。

 ちらりと覗いてみると、店員はおばさま、いや「おばあさま」というべき女性が一人。


 ふと目が合った。


「いらっしゃい」


 店員は頭を軽く下げる。

 見た目とは裏腹に管楽器のような通る声、正直驚いた。

 会釈して店に入る。


 いわゆる駄菓子屋。


 柱や壁に刻まれた傷やシミは、知るはずのないあの頃を彷彿とさせた。

 気になる商品はというと、意外にも今どきのお菓子がふんだんに並んでいる。


 もちろん、よく見ると最近のスーパーなんかではお目にかかれない懐かしいものまで幅広く取り揃えているのだが、駄菓子屋も進化しているのだとこの時初めて実感した。


 気になった駄菓子をいくつか手に取り店員へ持っていく。


「百二十円です」


 会計を済ませ店を出ようとすると「ありがとうございました」と言って店員は頭を下げた。

 こちらもつられて頭を下げる。




 店先に出ると中学生くらいの男児が商品をじっと眺めていた。


 学生にとって駄菓子の選択とはロマンと合理的判断の狭間のようなものだろう。

 質をとるのか手数をとるのか、普段とは違う駄菓子にチャレンジするのもいい。手に握った数百円の世界でそんな考えをこれでもかと巡らせる。

 子どもたちにとっては数百円が世界の半分なのだから、傍から見ているより当人は遥かに真剣だ。

 店先の学生が放つ商品に対しての強烈な視線は、きっとそういうことなのだろう。


 私がその場を立ち去ろうとした時。

 見てしまったのだ。


 学生は手を伸ばし、小さなチョコレート菓子を三つ握りこむ。そして、その手はポケットの中に深く潜り込んで、そのまま学生は歩き去った。


 その場で声をかけることもできただろう。しかし、相手が大人であればまだしも子どもであれば悪手だ。


 私は学生の後ろを追うことにした。




 道を歩く学生は終始そわそわとして歩幅もぎこちなく大きく早足に見える。

 このまま家まで帰ってしまうとなると、声をかける機会を失ってしまう。

 人目があっても構わない。せめて自然に話せるような場所へ進んでくれと願うばかりだった。


 公園に着いた。

 小学生くらいの子どもたちがサッカーをしていたが、それ以外に人はいない。


 学生は奥のベンチに座りポケットにしまい込んだチョコレートを取り出した。


「ちょっといいかな」


 一歩間違えば事案になりかねないが、意を決して話しかける。

 学生はビクっと跳ね、動揺したようにこちらを覗く。


「な、なんですか……?」

「いや、それについて少し話したいんだ。——大丈夫。私はあの店の人でも警察でもない。ただ、話がしたいだけなんだ」


 ここが一つの山場だろう。


 子どもに限らないが、自身の行いに後ろめたさがある場合、人はその場を逃げ去ることがある。大人相手ならば追いかけて捕まえることもできるが、子ども相手は万が一ということもありえる。

 そんな心配をしていたが、学生は俯いて少し間を置いてから静かにうなずいた。


 隣に座り、先ほど買った駄菓子を取り出して一つ学生に渡す。


「食べていいよ」


 学生は頷くも手は震えて動かせない。

 すぐに食べられないことは理解していた。こればかりは時間が緊張を溶かすのを待つしかないだろう。


 だからこそ、駄菓子を一つ。


 自身が敵ではないことだけを伝える。

 使い捨てカイロのように柔らかく、されど着実な一手を選ぶ。


「――チョコレートが食べたかったのかな?」


 少しずつ対話を始める。


 学生は首を横に振る。


「そうか……、誰かに指示された、とか」


 またも首を横に振る。


 この時、ふと思い出した。

 店先で学生が発していた強烈な視線を。


 強烈な視線といっても色々とあるが、先ほど見たそれは少なくとも恐怖によるものではないように感じる。

 しかし、重圧はある。

 私利私欲の問題にとどまらない悩みのような不安のような雰囲気。


 学生が感じる不安といえばなんだろうか。

 勉学か友人関係か、青春や色恋もあるだろう。橇の合わない教師だって山ほどいるだろう。そう考えると終わりが遠のいていく気がする。




 私はどうだろう。

 中学生と大学生では抱える悩みも違うだろうが、自己の研鑽と主体性が全てといっていい世界であることに変わりはない。


 私の持つ、持っていた悩みを軸に考えを進めるのであれば


「――家族関係?」


 学生は一瞬だけ反応して、首を振ることはなかった。

 地雷を踏んでしまったのだろうか。このタイミングで信頼を失うわけにはいかない。最低限の弁明を行う。


「いや、たとえばの話だから。違うのなら忘れてほしい。……ただ、もしそうなのだとしたら話を聞くことはできるから。赤の他人のほうが話しやすいこともあるだろうし――」


 そう呟くように話しながら視線を学生に向けると、うつむいた額から涙がこぼれてくるのが見えた。


「……そうだ! 喉が渇いたからそこの自販機に行ってくるよ。ちょっと待ってて」


 学生の背中を軽く擦り自販機に走る。

 彼の悩み事はおそらく家族関係だろう。ここまで絞り込めたのは光明……かもしれない。

 いや、どうだろう。

 家族関係の方が学校での諸問題よりよっぽど複雑ではないか。


「お待たせ。よければ、どうぞ」


 戻ってくると俯いた角度が少し軽くなっていた。

 隣にコーラを置く。


「それで、ええと……家族関係に悩みがあるのかな?」


 学生は一拍置いてから静かにうなずいた。


「……俺」


 初めて口を開く。


「俺……。母さんが亡くなって悲しくてそれで」


 想像以上に重たい一言。


「お母さんが……病気だったり?」

「癌だったみたいで、母さんいつも笑顔で振る舞うから周りに相談することもなくて、一年前初めて病院に行ったら末期だって、それで半年前に……死んじゃって……」


 どこか似ていると感じた。

 内容が内容だけに「よかった」なんて絶対に言えないが、私が寄り添ってあげられることだと、そう思った。


「お父さんは?」

「父さんは忙しくて家にあまりいなくて、帰りも遅くて……」

「なかなか相談できなかったんだ」




「きっと……一番悲しくて辛いのは父さんだから……だから——」


 そこまで話すと学生は大粒の涙を浮かべて俯いてしまった。

 痛いほどよくわかる。

 近しい人を失う悲しみ、表しきれない喪失感と焦燥感。


 思わず背中を擦る。


「もしかして、なんだけど。兄弟、いる?」


 学生は頷いた。


「——っ! そうか、だから似ていたのかもなぁ」


 背中を擦り、彼が泣き止むまで自分語りをすることにした。




「私も、兄弟がいるんだ、下に三人。最近顔を合わせてないけど、普段は仲良くやってるんだ。でも……、長男長女ってのは難儀なものでさ、悩みを聞くことが百回あっても悩みを吐き出すことは一度あるかどうか、だろう? まぁ兄弟姉妹ごとに違いはあるだろうけど。

 ……だからさ、ちょっと頑張りすぎちゃうんだよね。勝手なことなんだけど、変に背負いこんじゃって。——君が長男かは分からないけど、それも少しありそうだなぁ、なんて思う」


 そうして語っていると色々な思い出が蘇ってくる。

 憎めない、屈託のない笑顔を見せる兄弟の顔が、実家での生活風景が。


「なんて、ちょっとホームシックなのかも、私は」


「……もっと、相談した方が良かったんかな」


 震える声で呟いた。

 涙は止んでいた。


「そういう手もあった、って感じかな。人によっては自力で乗り越えちゃうこともあるけど、そんなのはよっぽど稀有だからねぇ」


 学生は私の渡したグミに視線を移して、一思いにという勢いで口に運んだ。


「寂しくて、どうしていいかわからなくて、ついやっちゃったんだ?」

「ん……。母さんが急に亡くなるなんて思わなかったから、心の準備が出来なくて、焦っちゃって」


 私は缶コーヒーを含んだ。


「家族が亡くなるなんて、思わなくて……」




「私も、最近ね、彼女を亡くしてね」


 学生は驚いたように私の顔を見た。


「交通事故、だったんだけどね。ドライブレコーダーの映像では運転手に悪意はなさそうなんだ。——彼女、桜っていうんだけど。桜から車道に飛び出てしまったんだ」

「なんで……?」

「最近調子が悪そうだったから病院を勧めていたんだけどね。……脳腫瘍だって。立ち眩みでふらついて……。亡くなってから分かったことだけど、——やっぱり、悔いは残るよ」


 新橋桜、完璧を体現したような人だった。

 でも、親交を深めるうちに綻びも見えてきて、そこも彼女らしさで大好きで。


 そして、見逃してしまった。

 彼女が病院に行かないことを説得しきることができなかった。


「悲しかった……ですか?」


 学生は真剣なまなざしでこちらを覗く。


「もちろん、当然ね!」

「……ごめんなさい」


「ううん、謝らなくていいんだ」


 先ほど買った駄菓子から適当に取り出し口に運ぶ。


「私もつい平然を装ってしまうんだけどね。未だに辛い。でも、誰かと話をすることで少しでも和らぐならいいかなって思う」




 気が付くと日が暮れてきていた。


「もう、こんな時間か」


 学生が立ち上がる。


「今日は、その、ありがとうございました」


 夕陽よりも明るく、晴れやかな表情を見せる。


「いやいや、私も楽しかった……というと少し変だけど。いい気晴らしになったからね。ありがとう。——それよりも」


 私の指さす先には例のチョコレート菓子が転がっている。


「……俺、これから返しに行ってきます。許してもらえるかは分からないけど、でも……道理には従うべきだから」

「私も同行しようか?」


 学生は一瞬だけ目を見開いたが、間を置かずに首を横に振った。


「いや、大丈夫です。——おかげで周りを頼ることも十分理解しました。でも、自身が責任をとらなければならないことは、もっともっと理解してるんで」




 問題に直面し足掻くように努力しているとき、この言葉を投げつけられたら。

 ——そう考えるから、嫌いだ。

 その言葉一つで勇気をふり絞るものもいれば悲しみに暮れるものもいる。私自身、きっと後者なのだろう。

 ——だから嫌いだ。


 しかし、この瞬間だけはその言葉が必要な気がして、背中を叩くことが正解のような気がして


 頷き、ただ一言だけ投げかけた。


「頑張れ!」


 


 学生は気持ちのいい返事をして走り去っていく。

 古びた街並みに絵画のような濃淡を見せる夕焼け。

 晴れやかな顔をした学生が走り去っていく。

 騒がしいカラスの鳴き声さえオーケストラのバイオリンにでも聞こえるようで、少し気を許せばエンディングが流れる気さえしてくる。


 そんな景色を眺めていると彼女の面影を近くに感じた気がして。

 故に、自身の小ささが、孤独が浮き彫りになるような気がして。


 一人ため息をつき帰路に就く。

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小満 大出春江 @haru_0203

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