あなたは小説が嫌い

大出春江

あなたは小説が嫌い

「小説を書こうと思う」


 風が吹く。

 やわらかい寒気が、秋の、その先の冬の気配を感じさせた。

 黄昏時の空にイワシ雲が敷き詰められ、その端から夜の帳が滲む。


 彼女と買い物に出かけた帰り道、ふと立ち寄った公園のベンチで、その言葉を聞いた。


「これはまた、急ですね」


 率直に答える。


「江戸川乱歩を最近見てね、書いてみたくなったのだよ」


 彼女は少し恥ずかしそうな顔をして、こちらを覗く。

 赤く染まった頬は、気恥ずかしさか寒さか、夕陽が当たってそう見えただけだろうか。


「私は小説をあまり読みませんから……ああ、でも、あなたの書いた話なら興味がありますね」


 二人して空を見る。

 のんびりと。


 時折、通りかかる子どもの声に気を取られたりして、空からマンションを、マンションから街路樹を、それから足元の蟻たちを見つめたりもした。


「いや、私もそこまで、小説は読まないのだよ? 」


 そう呟く。


 「意外ですね」と返してみると「意外だろう?」と、そう言わんばかりにふふっと笑う。


「なんなら、つい最近まで、小説なんてものを心底毛嫌いしていた気がする」


 声のトーンが上がったように思えた。

 どうぞ続けてください、と手のひらで示すと、彼女は足元の落ち葉を二枚拾い上げて、かさかさと擦り合わせる。何となく、私も真似をした。


「では、声援にお答えして……」


 そうして、彼女は語り始めた。


「私は、勉強が嫌いなんだ。学ぶことはこの上なく好きなのだがね。しかし、いざ強制されると、これが途端に興味がなくなる。人間誰しも、どこかでそんな経験があると思うのだよ。親に宿題をやれと言われた時とか、先生なんかに新聞をよく読めと言われた時のようにね。——私にとって、小説とはまさにそれで、授業で無理に読まされるものでしかなかったのさ。

 ——授業って時点で、もうとっくに小説なんてものに飽き飽きしている訳だが、さらに、これが学校の授業だというのだからタチが悪い。仮に小説自体に軽い興味があっても、学校の授業というのは読ませるようにできてない。始まれば最後、『それでは○○さんから順番に、段落ごとに読んでいきなさい』だなんて、ある意味でこれ以上なく無粋な形で作品に触れさせる。その上、なんだ、感想文まで書けと言ってくるじゃないか。ここまで来ると、もはや校長先生の長話の方がよっぽど中身が詰まっているのではと錯覚するね——。

 ……まあ少々熱くなってしまったが、だからこそ、なのだよ。たまたま暇を持て余した私が、江戸川乱歩を選んだのは。——芥川龍之介だって悪くはないだろう。もちろん、教科書に載っているような作品に心底悪いものなんてないだろうさ。けれど、やはりちょっとお堅い、それこそ授業めいてくる。それがやっぱりちょっと気に食わなくて、気を紛らわせたかったのだよ。そこで乱歩さ、単純明快だね」


 単純明快。その通りだろう。

 概ね同意見だと、そう思った。


「たしかに。物事には順序がありますからね。例えば、初めてリンゴを食べようという人に『これはバラ科の植物の果実であり、現在流通している品種の起源となるのは……』なんて話を始めたら面白くはないですよね」

「そういうこと」


 そういうこと。彼女が言っているのは、そういうこと。しかし、違和感があった。話の順序は間違ってないが、きっと、こういうことじゃない。

 彼女は腕を組む。


「さてと――それじゃ、そろそろ帰ろうか?」


 いつもの横顔。いつもの微笑み。でも、違うと、そう感じたから


「いや、もう少し話しましょう」


 口からこぼれた。


「……それじゃ、もう少し」


 腕組を解いて足を組む。組んだ足に手を置いて、こちらを覗いてくる。

 何か話を続けなければ。


「そうだ、小説ですよ。結局のところなんで小説を書こうと思ったか、まだ聞いてません」

「ま、聞かれなかったからね? 特別な意味はないよ。ただ、文を、物語を書いてみるのも悪くないかなと思ってね。出来心さ」


 そういうこともあるだろうか?

 私にはない感性が彼女にはあるのだから、そこを追求するのは愚策だろう。

 信憑性は皆無だろうが、AB型的な独特な感性、ということにしよう。


「どんな話を書くんですか?」


 彼女は買い物袋からペットボトルのコーヒーを取り出して一口含んだ。


「考えてなかったな。――まぁ、ファンタジーもののショートショートみたいな、そんな感じで書いてみようか」


「……違うんじゃないですか?」


 ここに来て、少しわかった気がする。


「なにか、間違えたかな?」


 彼女と目を合わせる。じっと見つめあう。


「間違い……ましたね。たぶん」


 私はまだ手放していなかった二枚の枯葉をすり合わせる。彼女も同じくすり合わせた。


「あなたは……桜さんは二つ、嘘を吐きましたね」

「驚いたね、詳しく聞こうか」


 今度は彼女から掌で促す。


「一つ目は、小説を書こうと思った理由です。桜さんは出来心だなんて言いましたけど、おそらく、そうではない。――残したかったんじゃないですか? 今までのことを。失ったあの日から、誓った復讐心から、今に至るまでの全てを」

「……」

「そうなれば、もう一つは小説の内容です。きっとファンタジーではない。もっと現代劇的な話になるでしょう――」


 彼女は立ち上がった。

 両手を上にあげて大きく伸びをする。


「……。そうだね、正解」


 こちらを向いてにっこりと笑う。


「さて、こちらの番だ。どうしてわかったのかな?」


 私も立ち上がって軽く伸びをする。


「いや、桜さんに限って「なんとなくファンタジー小説を書く」だなんて、そんなことはないと思っただけですよ。小説を書くにしたって、乱歩から入るなら『幻想小説』からだろうなと」

「それはそうだ。……でも」


 こちらに向けて指を向ける。


「それだけじゃないだろう? 恋人であっても「あなたは嘘を吐いている」だなんて追求、相当に攻めてる。なにか裏付けるものがあるんじゃないか?」


 流石に見逃してはくれないか。


「桜さんは偶に、儚げな表情を浮かべますよね。初めて会った頃になかったそれが、日を重ねるにつれて増えている。……まぁでも、そこは、勘ですよ。もちろん」


 真剣なまなざしでじっと見つめられる。


 しかし、それもすぐに終わった。


「勘、か。君が言うのならそうだろうね。きっと嘘じゃない」

「信じてくれるんですか?」

「……あのだね、信じないわけにはいかないんだよ。前々から何度もあったし、付き合うきっかけになった時も「勘」……だっただろう?」


 あの日、彼女に突き付けられた選択。どう考えても答えは明白だった。しかし、その逆の答えに手が伸びてしまった。それが正解だった。


「君の勘にはいつも驚かされる。私が主導権を握ろうと策を巡らせようとしても、場合によってはその三手前にバレてしまう。君は私の才を随分と買ってくれているようだが、君もたいがいなのだよ?」


 そういうと彼女はグッと近づいてきた。

 キスをされる。


「こんな不意打ちでしか動揺させることができなくなってしまったのさ。責任を取ってくれよ? まったく……」

「ま、責任が取れないような人間ではありませんからね」


 こちらからもキスを返す。


「謹んでお受けしますよ」


 二人して笑う。


「さてと、そろそろ帰ろうか」

「ええ、冷えるといけませんから。小説、楽しみにしてます」


 夜の帳が一層滲んで、空の星々もちらほらと見え始める。

 空気は尖り、秋の終わりさえ感じさせた。


 風が吹く。

 赤とんぼはもういない。

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あなたは小説が嫌い 大出春江 @haru_0203

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