月夜に陽炎

大出春江

月夜に陽炎

 大学二年の夏。


 青春、と聞くと高校時代を思い浮かべる人も多いだろう。実際、私としても、小中高の頃はそう思っていたし、その考え方に異議を唱えたいわけではない。


 しかし、いざ高校時代を迎えてしまうと、まぁ、全日制の学校ではなかったからかもしれないが、「青春」と感じられる瞬間は多くはなかった。

 むしろ大学に入ってからの方がよっぽど「青い春」を感じるのである。


 それぞれの人間が、それぞれのやりたいことをやる。


 年齢も思想も縛られず(宗教流布は禁じられるが)、堅苦しい高校の時とは違う、心地のいい雑味と自由と色を感じる。

 今のように晴れの日のベンチに座ると、春の日差しを感じ、人々の話し声が響いて、知識欲を存分に満たすことができる。

 きっと、そんな環境を欲していたのだと、あらためて実感する。


 いや、何が言いたいのかというと、そんな考え方ができるようになったのは彼女に出会うことができたからだろう、ということである。


「新橋桜(シンバシサクラ)……か」


 驚いた、ポロっと呟いていた。


「私がどうかしたかな?」


 驚いた、聞かれているとは思わなかった。

 彼女はコーヒーを片手に隣に座る。


「いや、実は、もともと私は桜の花が好きじゃなかったな、と」

「当ててもいいかな?」


 私がちらりと見ると彼女は微笑んで


「明るすぎるから、じゃないか?」


 桜の花は、明るすぎる。

 いや、そもそも花という概念そのものが明るく感じる。


 私はどうにも卑屈な考え方をしがちで、花よりも樹木の方が好きだし、晴れ空よりも薄く雲がかかる方が好きだし、生き物よりも無機物感のある方がよっぽど好きだ。

  

 この感性は現在も変わらないが、彼女にあてられて、魅せられてしまった。

 今まで手放し続けてきたそれらも悪くないと思い始めたのである。


「正解です」


 彼女は少し得意げに笑った。


「新橋……桜さんは、好きじゃないものってありますか?」

「驚いた、まさか下の前で呼んでくれるとはね。さん付けも無くなれば完璧だよ」


 そういってコーヒーを一口飲んだ。


 決して話を逸らそうとしているわけではない。

 コーヒーを一口飲む間に、とても真剣な目をして考えている。

 彼女らしい、誠実な答えを出すための手法。


「——私も完璧人間ではないからね。『好きではないもの』なんていくつもあるさ。たとえば、差別……は好きではないものじゃないな『嫌いなもの』だ。——そうだ、夜なんてどうだろう」

「夜?」


 言葉の意味を履き違えないあたり、この人に会えてよかったと心から思う。

 ただ、夜。その返しは想定していなかった。


「いや、単純に暗いから好きではないんだ。夜の静けさが好き、という人もいるだろうけど。しかし、あれはいつでも明かりを持って歩けるからこそ享受できる夜の良さであって、本来の夜というのは、ほんの少し文明が追い付かなるだけで恐怖に代わりかねないものだと思うのだよ」


 夜が好きではない。理由は暗いから。ということは洞窟や押し入れの奥のような暗いところであっても好きではないのだろう。

 暗闇に恐怖するということを言葉にできる、実に人間らしい回答だと思う。

 

 しかし


「暗闇は『嫌い』ではないんですね」


 おそらく、彼女はその返しを待っていたのだろう。いや、この返しをしてくれるという信頼関係からあえて回りくどい話し方をしたのかもしれない。

 コーヒーをもう一口飲んでニヤリとして続ける。


「なんでだと思う?」


 なぜ暗闇は嫌いではないのか。

 うむ、考えるまでもない。


「光があるから」

「その通り!」


 随分と上機嫌なようで、もう二口コーヒーを飲んだ。


「ほんの少しでも文明が遅れれば、たしかに夜や暗闇なんてものは『嫌い』だったかもしれない。——しかし、どうだろう。我々人間はそれなりに頭がいいし、それに最低限の火を起こすこともできるだろう。とすれば、暗闇を照らすことで手に入るもの、もしくは暗闇の中でも光るものに興味を抱くわけだ。暗闇への恐怖は無くならないが、それ以上のなにかを手にできる。……悪くない話だろう」


 純粋な知識欲。

 あの頃の自分も、今の自分も、それを駆使して歩く彼女の様に憧れたのだろう。


 ——だからこそ、気になってしまった。


「——人は」

「人?」


 彼女はきょとんとしている。


「あ、いやすみません。何でもないです」

「そんなことはない、話してくれ」


 手をグッと握られる。


「——人は、どうですか?」

「人、というと人間のことかい?」

「そうです」


 彼女は小さいころに家族を失っている。

 不運にも全員。母と兄弟は運転事故、それも相手の飲酒運転が原因。父親は救急搬送中の事故。

 この二つの事故は、きっと、人間が少しでも誠実で、少しでも頭が良ければ助かったものだと思う。

 彼女自身、人間の良さは十分に理解しているのだろうが、それでも、今回の話でいうところの「好きではないもの」に含まれるのではないだろうかと思った。


 しかし、いくらそんなことを思ったとしても、彼女に真正面から聞くことではないだろう。

 心を抉りかねない、あまりにも危険な質問。

 私は、自身がもう少しでも謙虚であれればと、そう思わずにはいられなかった。


「そう……だね」


 彼女は手を引いて、コーヒーを回してじっくりと見つめている。


「私は——」


 残ったコーヒーを一気に飲み干した。


 彼女の顔は少し悲しそうだった。「好き」では表しきれない感情が表情に出ていた。

 

「月夜に陽炎は立つかな?」


「立ちません」


 彼女は微笑んで雲を眺める。


「どうしてだと思う?」

「太陽も沈んで、夜は冷えますから」


 私は地面の蟻を眺めた。


「そうだろうね」


 ほんの一瞬、沈黙が流れた気がした。


「月夜に陽炎は立たない、なぜならば陽炎に必要な熱源が不足しているから。――それと同じだよ」

「どういうことです?」


 頭をなでられた。


「家族が亡くなった時、そこには明白な理由があった。許せるかどうかは別として、理由があった。……結果と経緯がわかっている。そういった意味で納得はしているのだよ」


 理由さえ解れば。とても彼女らしい考え方。

 それを否定するわけじゃない。

 むしろ、その考え方だけで解決できるのならそれでいいではないか。

 

「悲しい顔を、していました」


 彼女は驚いていて、気恥ずかしそうに笑う。


「ははっ……、まさかそんな顔をしていたとはね。――そうかぁ」

「桜さんの考え方は、ある意味で、一つの正解なのかもしれません。ただ、ほんの少し、救いがないように感じるんです」

「救い?」


 今度はこちらから彼女の手を握る。


「あなたを見ていると、その知識欲の強さに人間の強さを再認識させられます。しかし、人は、その心は見かけ以上に弱いと思います。……きっと、悲しみなんかの感情は、経緯の理解だけでは報われないものでしょう。どうにかしてあなたの悲しみを一緒に背負いたくて、だからその――」


 ちらりと彼女の顔を見ると、細く涙が伝っていた。


「あ…あぁすまない。これは、その……ごまかしきれないな」

「いいんです。大丈夫です。私がそばにいますから、背中はいつでも貸しますから」


 そういえば、彼女が泣いた姿を見るのはいつ以来だろう。それこそ、高校三年の夏が最後かもしれない。

 私も彼女もただの人間で、見かけだけ努力して取り繕って、心は思う以上に弱い。

 どんな人間にもいえることで、ついつい忘れてしまうこと。


「もう大丈夫だ、本当にありがとう」


 少ししてから彼女はゆっくりと顔を上げた。


「それよりも、そろそろ講義の時間じゃないか?」


 確認すると、次の講義まで十五分と少し。


「ぼちぼち行きますか」


 立ち上がって大きく伸びをする。

 春の日差しが一層心地よく、緑のにおいを感じた。


「そういえば」


 彼女が呟いた。


「一緒に背負ってくれるんだよね」

「もちろんです」

「それじゃあ――」


 首筋にキスをされる。


「一生、一緒にいてくれよ?」


 もちろん


「月夜の陽炎にでもなりましょう」

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