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 帰宅して、ホットミルクを飲みながら、頭の中を整理する。できるだけ、冷静に。

 まず私の記憶では、少なくともこの二ヶ月間は、五十嵐航哉と付き合っていたはずだ。

 そして今日の朝、三森要人という知らない男子が、私の恋人を名乗っていた。

 親友である花蓮も、彼が私の恋人であると証言している。航哉からの連絡はない。

 いくつか仮説を立ててみる。

 航哉は、私に足の怪我のことを知られたくなかった。

 真っ先に思いついたのがこれだ。

 私が足の怪我のことを知ったら、きっと先週と同じように、苦しい思いをしてしまうと考えたのだろう。つまり、私に心配をかけたくなかった彼は、この一ヶ月の間、私とはなんの関係もない人として過ごすことに決めた。

 私と航哉が付き合っていることを知っている人間は限られている。私は友達が少ないわけではないけれど、花蓮のような、親友と呼べる存在は他にはいない。普段よく話す友人とは、悩みの相談だったり、恋バナだったり、そういった話を積極的にすることはあまりない。病気のこともあるので、あまり事情を説明したくないというのもあり、私と航哉が付き合っていることは、一部の人にしか伝えていなかった。

 そんなわけで、私と航哉の交際を知っているのは、本人たちを除けば、花蓮と、私の姉と、航哉の友達の町野くんくらいだ。もちろん、私が知らないだけで他にもいるかもしれないし、私の推測が正しければ、三森要人もたぶん事情を知っているのだろうけれど。だから、数人が黙っていれば、私と航哉の恋は、この世界に存在しないものとして扱うことができる。

 唯一の誤算は、私の記憶が消えていなかったことだ。

 そして、考えたくはないが、別の推測もできる。

 航哉は、私と別れたかったのかもしれない。

 一ヶ月ごとに恋の記憶が消えるということは、そのタイミングで離れれば、まったく無関係の人間になれるということだ。今はイレギュラーがあって、私は航哉のことを覚えているけれど。

 つまり、私は航哉にフラれた、と解釈することができる。

 そう考えると、とても悲しかった。

 でも、航哉はそういう人ではない。優しくて、思いやりがあって、こんな私を好きになってくれて。

 私には二ヶ月分の記憶しかないけれど、その前だって、恋の記憶が消える私を受け入れてくれて、一ヶ月ごとに、記憶のない私に恋をさせてくれたことはたしかだ。

 私にとって航哉は、間違いなく特別な人で、彼もきっと、そう思ってくれていると信じていた。そんな航哉が、何も言わずに別れようとするなんてことは、絶対にあり得ない。

 でも――。

「……本当に、そうなのかな」

 考えれば考えるほど、彼は私と別れたがっているのではないかと思えてくる。

 むしろ、このタイミングを選んでくれたという考え方もできる。もし、航哉との記憶が消えていれば、私はきっと、彼と付き合っていたことを忘れて、三森要人のことを、約一年付き合ってきた恋人として受け入れていた。

 つまり、これもある種の優しさなのではないだろうか。

 それに、航哉が一方的に私と別れようとしているとして、それを不実だというのなら、彼のことを忘れたふりをして、表面上にせよ、要人のことを受け入れている私だって同罪だ。

 そもそも、航哉との記憶が残っていることが、何よりの裏切りなのではないか。

 私はいまだに、航哉への恋愛感情がなくなっているという事実に向き合えないでいた。

 大好きなはずの人に、もう恋をしていないなんて、認められるわけがない。

 窓の外の、欠け始めたばかりの月を眺めて、私は昨日まで恋人だった人に思いを馳せる。

 今もきっと、航哉は苦しい思いをしている。

 だからこれ以上、彼のことを裏切りたくない。

 机の上のスマホが光っていることに気づいた。要人からのメッセージが届いている。


   三森要人[今日はありがとう 楽しかった]


 たったそれだけの一文なのに、なぜか胸のあたりが温かくなる。

 どうして、こんな気持ちになっているのだろう。

 要人は本物の恋人ではないのだ。だからこの気持ちも、偽物であるはずだ。

 私の本当の恋人は、五十嵐航哉で。

 航哉は、私の運命の相手だった。

 私のことを見つけてくれて、恋をしてくれて。

 忘恋病が発覚しても、それを迷いなく受け止めてくれて。

 たとえ記憶が消えてしまっても、何度だって好きにさせると言ってくれた彼は、間違いなく素敵な人だ。

 実際、私は航哉のことを、何度も好きになったはずだ。

 満月が私の記憶を消しても、彼が恋を教えてくれた。

 こんなに私を大切に想ってくれている彼を、好きにならないわけがない。

 だから――恋を忘れる私は、彼のことを忘れていなくてはいけないはずなのに……。

「どうして……」

 思わず漏れた声が、湿っていたことに気づいて。

 泣きそうになっていることを自覚した。

「どうしてっ……覚えてるの」

 止まらなかった。私は顔を枕に押しつけて、声を殺して泣いた。

 航哉のことはちゃんと好きだったはずだ。記憶がある二ヶ月の中で、素敵だなと思うことはあっても、不快に思うことや不満なんて一つもなかった。いつだって、彼は素敵な恋人だった。じゃあ、どうして彼のことを覚えているのだろう。

 恋が終わる理由なんて、そんなに多くない。

 ささいなすれ違いが重なった。

 物理的に距離が離れてしまった。

 幻滅した。

 他に好きな人ができた。

 そこまで考えたところで、恐ろしい可能性に気づいてしまった。

 私に三森要人の記憶はない。

 それは本当に、初対面だからなのだろうか。

 例えば、こう考えることはできないだろうか。

 私は航哉という恋人がいるにもかかわらず、三森要人に恋をしてしまった。航哉の記憶が消えていないのは、恋をする対象が変わったから。

 そして――私が要人に恋をしていると気づいた航哉が身を引いた。

「そんなわけ……ないよね」

 言い聞かせるように力なく呟いた私の声は、一人の部屋に、すぅっと虚しく消える。

 頭では、そんなことはあり得ないといくら考えても、もしかしたら……という懸念が心の片隅に引っ掛かっていた。

 今日、実際に会って、要人のことをたくさん知ることができた。

 芸能人だと言われても納得してしまうくらいに美形。誠実で優しくて、お茶目な一面も持っている。可愛いとか、好きとか、そういう言葉もサラッと言えてしまう。

 知れば知るほど、彼のことを魅力的だと感じるようになった。

 実際に会い、言動を観察してみたけれど、悪意を持って私を騙そうとしているわけではないと思う。

 何より花蓮も、この件に協力しているのだ。私から何かを隠すみたいにして。

 きっと、私には想像もつかないような何かが、彼らの裏側にはあるのだろう。

 色々な事情が、複雑に絡まってしまっているような、そんな予感があった。

 やはり、航哉の足の怪我と関係があるのだろうか。

 花蓮に聞けば、色々なことがわかるかもしれない。

 だけど、私が航哉を認識していることが、彼に恋をしていないことの証明になってしまう。

 結局、身動きが取れないままだった。

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