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「わ、可愛い……」

 思わずそう呟いてしまう。

「お洒落だよね」

 約三ヶ月前にオープンしたケーキ屋の『シエル』は、とても可愛くてお洒落なお店だった。ピンクと白を基調とした外観が、柔らかい空気感を演出している。道路に面したガラス張りの窓から店内が見えるようになっていて、ケーキを食べている客たちは、満足そうな表情を浮かべていた。計算し尽くされているであろう照明が、華やかさを引き立てている。写真でしか見たことがなかった『シエル』の建物に、感動が押し寄せてきた。

「春奈。口、開いてる」

「し、失礼しました」

 要人の指摘に、思わず敬語で謝ってしまう。

「ふっ……昔みたいな反応だ」

 楽しそうに笑う要人に、恥ずかしさが湧き上がってきた。

「お恥ずかしいところを二回も見せちゃってごめんね……」

 今の私にとっては初めてのお店だけど、少なくとも一回は来ているのだ。証拠の画像だってあった。誰と来たのかはわからないけれど。

「そんなことないよ。可愛い」

 そんな言葉を放ち、私の頭に軽く手を乗せると、要人はスタスタと店内に入って行ってしまう。

 私は数秒間フリーズした。

 今日、ずっと思っていたのだけれど、どうやら要人は、さりげなくそういう言動ができるタイプらしい。ちょっと意外だ……というのは失礼だろうか。

 そんなことを考えつつ、私は熱くなった顔を冷ますようにぶんぶんと振ると、彼のあとを追った。

 ピーク後の時間帯ということもあり、五分も待たずに席に案内してもらえた。店内には若い人が多い。近くに大学があるので、そこの学生がメインなのだろう。

 お洒落なデザインのメニューを見て、ケーキを選ぶ。迷う時間すらも楽しい。

 悩みに悩み、食べたいと思っていたモンブランを注文することにした。

「春奈、前に来たときもモンブランだったよね」

「え、そうだったんだ」

「写真に一緒に写ってたじゃん」

「そういえばそっか。全然意識してなかった」

 恋の記憶が消えても好みが変わるわけではないので、当然のような気もしたけれど、同じ行動を取ったことに運命的なものを感じてしまう。

「要人は何食べるの?」

「僕はチーズケーキかな」

「いいね。チーズケーキも美味しそう」

 要人が店員さんを呼んで、二人分の注文をしてくれた。

 軽く雑談を交わしていると、ケーキが運ばれてくる。

「じゃあ、食べようか」

「うん。いただきます」

 フォークですくい、ひと口食べてみると、ちょうどいい甘さの栗味が口の中に広がった。

「ん、美味しい!」

 前にも食べたことがあるはずなのに、今の私にとっては初めての感動だ。こういうときは、記憶を失う病気でよかったと思う。そうでも思わないとやっていられない。

「ほら、やっぱりまん丸になってる」

 私のその顔を初めて見たかのように、要人は楽しそうに笑う。なんだか、また恥ずかしくなってきた。

「だって美味しいんだもん!」

 羞恥心をごまかすように、要人をにらみつけるようにして、私は言う。

「ごめんごめん。でも、春奈の素直なリアクション、可愛くて僕は好きだよ」

 まただ。可愛いとか、好きとか、そういうことをサラッと言ってくる。

「はいはい。どうせ私は素直で単純ですよ〜」

 私は動揺を隠すようにして、モンブランをひと口食べる。同じモンブランなのに、さっきよりも甘いような気がした。

「別に、単純とは言ってないって」

 要人も楽しそうで、なんだか心がくすぐったい。

 忘恋病によって生じる不安なしに、こうして笑い合えていたら、きっと楽しいんだろうな。

 ――まただ。

 ふと我に返る。

 私は今、何を考えていたのだろう。これじゃあまるで、要人のことが本当に好きみたいじゃないか。私たちの本当の関係は、恋人なんかじゃないはずなのに。

 頭の中から、さっき感じていた甘い想像を追い出す。

「ん。チーズケーキも美味しい」

「あ、うん。よかったね」

 私は咄嗟に笑顔を作って答えた。

 それから私たちは、色々なことを話した。まるで、普通のカップルみたいに。

 面白かった漫画のことや、よく聴いているアーティストのこと。中間テストのことや、高校卒業後の進路のこと。

 私に合わせてくれているのか、要人の会話のテンポは心地よく、つい話し込んでしまう。

 だけど、私が本当に聞きたいことは聞けなくて――。

 私は色々なことを考えていた。思考はぐるぐると同じところを回っていて、まるで出口のない迷路にいるかのようだった。

 ケーキを食べ終えて、コーヒーのおかわりを頼んだ。

「ケーキ、美味しかったね」

「うん。それに、春奈が嬉しそうでよかった」

 その優しい笑みに、胸がきゅっとなる。

 恋の記憶がないから、今、私が要人に抱いている気持ちが恋なのかはわからない。

 一ヶ月後に、記憶が消えていれば恋になるのだろうけど、このままでは、消えていることにも気づかない。

 次の満月の日、私はどうなっているのだろう。何事もなかったみたいに、また航哉と付き合い始めるのだろうか。

「春奈?」

 また色々なことを考えて、自分の世界に入ってしまっていたようだ。

「あ、ごめん。ケーキもコーヒーも美味しくて、なんだか眠くなっちゃった」

「じゃあ、そろそろ行こうか」

 私たちは席を立つ。


 私の本当の恋人は誰?

 あなたは、何者なの?

 要人に、そんな質問をぶつけてみたかったけれど、最後までできなかった。私を思い留まらせたのは、花蓮からのメッセージだった。

 遠野花蓮は、誰よりも信頼できる友人だ。今まで、私の恋の記憶が消えるたびにサポートをしてくれていた。そんな花蓮が、私の恋人は五十嵐航哉ではなく、三森要人だと言っている。それなのに、五十嵐航哉と付き合っていたときの記憶がしっかりと残っていた。

 つまり――私の記憶と花蓮のメッセージの、どちらかが噓だということになる。

「春奈、大丈夫?」

「え?」

「なんか、ボーっとしてたから」

「ちょっと、疲れちゃって。ごめんね……」

「そっか。春奈にとっては会うのも初めてだもんね。今日はゆっくり休んで」

「うん」

 それから少しだけ、なんでもないような会話をして、私たちは解散した。

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