7

 私が取り返しのつかないことをしてしまったのは、今から一週間前のことだ。

 そのときの私は、ひと月前の記憶があることを隠しながら、航哉と交際していた。

 軽くご飯でも、という航哉の誘いに応じて、ファミレスで夜ご飯を食べたその帰り、私は航哉と一緒に歩いていた。部活動で疲れているはずなのに、こうして私のために時間を作ってくれる。彼の、そういうところが好きだった。

「春奈、大丈夫? なんかぼーっとしてない?」

「ん、大丈夫。ちょっと、昨日遅くまで勉強してただけ」

「……そっか。無理しないでね」

「うん。ありがと」

 もしかすると航哉は、別の理由で元気がない私に気づいていたかもしれないけれど、特に何も言わず、歩幅を合わせて歩いてくれていた。

 心配はするけれど、無理やり聞き出すようなことはしない。

 そういう絶妙な距離感でいてくれるところも、航哉のいいところだと思う。

 それなのに、私は航哉のことを好きではなくなってしまったかもしれなくて――。

 次の満月までは、あと一週間。そのときも航哉の記憶が消えなかったらどうしよう……。

 そもそも、今だってもしかしたら、航哉は私の記憶が消えていないことに気づいているかもしれないのだ。

 そういったことを、この三週間の間、私はうじうじと考え続けている。

 ネガティブな予感がどんどん積み重なって、心に重くのしかかっていた。

 そして私は――。

「あっ……!」

 歩道橋の階段で足を滑らせてしまった。

 航哉との関係性について悩んでいて注意が散漫だったうえに、前日に降った雨で地面が濡れていて、滑りやすくなっていた。

 ひゅっ……と、のどの奥が鳴った。時間が止まったように、自分が落下していることを認識するが、体は動かない。

「春奈っ!」

 いつも頼もしい航哉の、焦ったような叫びが鼓膜を突き刺して――。

 彼はとっさに、私を守るように抱きしめる。

 そのまま私たちは階段を転げ落ちた。

「……ってぇ」

「航哉⁉ 大丈夫?」

 私は擦り傷一つ負っていなかったのに、彼は右足をひねってしまっていたようで、足首を押さえていた。

 航哉は「うん。春奈は怪我ない?」なんて、苦しそうに顔を歪める。

 背中が少しだけ痛んだけれど、それくらいだ。私が「ない」と答えると、彼は「よかった」と笑った。

 全然よくない。

 どうして、私なんかをかばって……なんて、今は自己嫌悪に陥っている場合ではない。

 駅が近かったので、ロータリーに止まっていたタクシーを使って、私たちは病院に向かった。頭が真っ白になってしまった私に、航哉はずっと「大丈夫だから」と声をかけ続けた。「どっちが怪我人かわからないな」なんて笑っていたけれど、その笑顔は痛みで歪んでいて、私は全然笑えなかった。

 折れてはいなかったが、捻挫と診断され、航哉は二週間ほど、激しい運動を禁じられてしまった。

 もうすぐ、大切な大会があるはずなのに……。

 私は私が許せなかった。ただでさえ最低な人間なのに、さらに罪を上塗りしてしまったように思えて、息が苦しくなる。


 できることはなんでもした。

 次の日、航哉の家まで迎えに行って、荷物を持って一緒に登校した。教室まで持って行こうとしたけれど、航哉は「周りに怪しまれるから、ここまでで大丈夫。ありがとう」と言って、校門より前、人の少ないところで別々になった。

 私たちの関係がバレることくらい、航哉の足に比べたら、どうってことないのに……。

 帰りも同じように、人目につかないところで合流し、航哉の家の前まで一緒に帰った。


 今から二日前。それが、私が航哉に会った最後の日だった。

 前日までと同じように、航哉の家まで荷物を持って歩いた。

「今日も一緒に帰ってくれてありがとう。でも、松葉杖もそろそろいらなくなるし、歩くくらいなら普通にできるから、来週から荷物は自分で持つよ」

 申し訳なさそうに言う航哉の優しさが、今はただつらかった。結局、私がしていたことは自己満足でしかなかった。航哉も、それを見抜いているかもしれない。

 自分の罪の意識が少しでも軽くなればいいなんて、そんなずるいことを思った私のことを、彼は軽蔑しただろうか。

「うん。他に何かできることがあったら、なんでも言ってね」

「ありがとう。でも、もう大丈夫だから」

 その台詞で、突き放されたように感じてしまって、心がズキズキと痛んだ。

「本当に? 無理しないでね」

「春奈」

「ん?」

「たぶん、今月会うのって、今日が最後になるよね」

「……うん。そうだね」

 二日後に満月の日がやってくる。

 今度こそ、私の記憶から航哉は消えてくれるのだろうか……。

「今までありがとう」

 航哉は、私のことを片腕でそっと抱きしめた。

 先月も彼は同じことを言っていた。きっと、これまでもそうしていたのだろう。

「……ううん。そんな、お礼言われることなんてしてないよ」

 それが、私が航哉と最後に交わした会話だった。


 そして迎えた今日の朝――。

 目の前が、絶望で塗りつぶされる。

 やはり私は、五十嵐航哉のことを覚えていた。今度は、はっきりと。

 ここまできたら、もう認めるしかなかった。

 私は恋を――五十嵐航哉への恋愛感情を失ってしまった。

 寝起きで頭が上手く働いていないということもあって、考えがまとまらない。

 そんな中――届いていたメッセージを見て、私はさらに混乱することになる。

 私の恋人が、知らない人に変わっていたからだ。

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