6
「春奈はこのあと、どこか行きたいところある?」
ファミレスを出て、要人が尋ねる。
時刻は午後の二時を少し回ったところだ。
「ん〜、隣の駅にできた新しいケーキ屋さんとか」
三ヶ月くらい前に、とても可愛いケーキ屋ができた。ずっと行きたいと思っていたのだ。だけど、行きたかったという気持ちがあるということは、恋をしていたときの私はもしかすると――。
「あぁ。『シエル』ね」
「そう、それ! 要人、知ってるの?」
「前も行ったことあるから」
「あ、やっぱりそうなんだ。ごめんね。私、覚えてなくて……」
私は反射的に謝る。だけど、そのときに私が付き合っていたのは、五十嵐航哉のはずだ。だから今の要人の台詞はきっと噓だ。それなのに、はっきりと確信できなかった。
果たして、私は本当に、要人と一緒に『シエル』に行ったことがないと断言できるのだろうか。
「ううん、こちらこそごめん。でも、新鮮な気持ちで楽しめるってことだよね。うらやましいな。それに、初めて食べたときの美味しくてびっくりしてる春奈の顔、もう一回見られるって考えると、僕も楽しみ」
要人は優しく笑う。
「何それ。私、どんな顔してたの?」
「目がまん丸になってた」
「まん丸は言いすぎでしょ」
「そんなことないよ。本当にまん丸だったんだって。証拠写真、見る?」
と、ポケットからスマホを取り出し、要人は慣れた手つきでロックを解除する。
「え……見てみたい」
私たちは歩みを止めて、道の端に寄る。
でも、証拠写真なんてあるわけがない。だって、私と彼は今日が初対面のはずなのだから。
しかし――要人のスマホの画面にはたしかに、ケーキを食べながら目を見開いている私が映っていた。
「……本当だ」
心臓が音を立てて動いている。まったく記憶にない自分の姿に、呼吸が浅くなった。
このとき、私の写真を撮ったのは、本当に目の前の男の子なのだろうか。それとも――。
「でしょ」
「他にも画像見てみたい。ある?」
今の一枚だけでは判断ができそうになかった。
「あるけど、もう見ても大丈夫そう?」
要人はおそらく、忘恋病のことを言っているのだろう。
私は毎月、過去の自分からのメッセージと、親友である花蓮の協力により、恋人がいること、そしてその恋人が誰なのかを知ることになっている。
私は過去に一度、もっと簡単に恋人のことを知ることができるのではないかと思い、実験をしたことがあるらしい。らしい、というのは、当時のことを明確に覚えているわけではなく、そのときに書いたメモを後から見返して、客観的に事実として知ったからだ。
恋人ができてから三ヶ月目。十二月の上旬のこと。恋人との写真やメッセージなどを残しておくことで、記憶を失ったときに、もっとスムーズに自分の状況が理解できるのではないかと考え、私はそれを試してみた。
しかし、それは失敗に終わった。記憶が一切ないにもかかわらず、過去の私が知らない人の隣で笑っていたり、知らない人と親しいやり取りをしていたりすることが、どうしても耐えられなかった。思わず、トイレに駆け込んで吐いてしまった。
恋をしていたときの自分と、その記憶が一切ない自分が、あまりにもかけ離れていて。
気持ち悪かったし、怖かった。自分が自分ではないような気がして、誰か別の人間が私に成り代わって生活していたような不快感さえ抱いた。
そのときに見た文章や写真は、もう思い出せないけれど、心と体がバラバラになってしまったような感覚だけは、今でも強く胸に残っている。
だから四ヶ月目以降は、記憶が消える前に、私のスマホの方から、恋人との写真やメッセージ履歴は削除することにしていた。思い出が消えてしまうみたいで寂しいけれど、同じデータは、恋人のスマホには残っている。恋人の存在をある程度受け入れられたタイミングで、写真やメッセージを見せてもらうという手順を踏んでいた。
記憶がリセットされるたびに、たしかに恋だった気持ちを呼び起こすように、私は数日間かけて、恋人のことを少しずつ知って、ゆるやかに好きになっていく。
つまり、今の要人からの「見ても大丈夫そう?」という質問は、記憶にない自分自身の姿を見ても、平静でいられるか、という意味である。
「うん。たぶん、もう大丈夫」
私はそう答えた。自身の状況と、恋人の存在をしっかり認識できたあとであれば、写真やメッセージを見ても問題はない。記憶にない自分の言葉や姿に、どうしても違和感は覚えるけれど。
ただ、今の状況では、どうなるかわからなかった。
私の恋人が、三森要人ではなく五十嵐航哉だという確信は、だんだんぐらつき始めている。
「じゃあ、はい」
要人がスマホを差し出す。そこには、私の知らない私がたくさんいた。
動物園でうさぎを抱っこしていたり、夢中で漫画を読みふけっていたり、ふざけて眼鏡をかけていたり、公園のベンチでアイスを食べていたりした。
どの画像の中でも、私は幸せそうに笑っていた。撮った人のことを好きじゃなきゃ、きっとこんな表情は出てこない。
私は本当に、恋をしていたんだ。
じゃあ、その恋の相手は、誰なんだろう……。
今の時代、画像の送受信なんて実物の写真を手渡しするよりも簡単だ。だから、要人のスマホに、恋をしている私が映っているからといって、私が彼に恋をしていたのだと結論づけることはできない。
「どう?」
要人の呼びかけで我に返る。
「あ、うん。平気。それよりさ、要人と一緒に写ってる写真はないの?」
見せてくれた写真はすべて、私だけが写っているものだった。だから、要人とのツーショットさえあれば、私が誰に恋をしていたかが明らかになる。怖かったけれど、確かめたいという気持ちの方が強かった。
「なくはないけど、ほとんどないよ。僕、写真が苦手なんだ」
困ったような顔で言いながら、要人はスマホをポケットにしまった。
「そうなんだ」
それを聞いて、ホッとしている自分がいた。
どんな結論が出たとしても、私は動揺してしまうだろう。
結局、要人が航哉に代わって私の恋人のフリをしているのか、私が本当に要人に恋をしていたのかはわからなかった。
今わかるのは、自分の知らないところで、何かが起きているということだけだ。
「このあとどうしよっか。もう『シエル』行く?」
要人が話題を変える。
「んー、お昼食べたばっかりだから、もうちょっと経ってからの方がいいかな」
「わかった。じゃあ、いったんどこか別の場所に行こうか」
「そうだね。要人は、どこか行きたいところある?」
「行きたいところ、か……。うん、あるよ」
少し考えるようなしぐさをしたあと、彼は言った。
「じゃあ、そこ行きたい。私、もっと要人のことが知りたい」
その言葉の裏に隠された私の気持ちを、果たして彼は察しているのだろうか。
「わかった。じゃあ、行こう」
そう言って歩き出した彼の、半歩後ろをついていく。
綺麗な横顔を視界に収めながら、私は考えていた。昨日までの私たちは、どういう関係だったのだろう。
本当に恋人だった? 私の記憶の方が間違っているのだろうか。
それとも、無関係の他人だった? もし他人なのだとしたら、どうして私の恋人として振る舞っているのだろう。
花蓮はどうして、私たちが恋人同士だと、噓をついているのだろう。
航哉は――昨日まで私の恋人だったはずの人は今、何をしているのだろう。
足を怪我した彼のことを思い出して、罪悪感がこみあげてくる。
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