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 満月の翌日、いつものメッセージが表示されている。

『私には素敵な恋人がいます!』

「あれ……?」

 満月によって、恋人との記憶が消えてなくてはならない。

 そのはずなのに――どういうわけか、恋人と過ごした日々を、私はうっすら覚えていた。

 彼の名前は、五十嵐航哉。同じ学校、同じ学年。スポーツ科で、この夏にバドミントン部の部長になった。優しくて、明るくて、人気者で、とても頼りがいのある素敵な男の子。

 他の鮮明な記憶に比べると、航哉との記憶は少しぼやけている。それでもたしかに、彼といた日々を私は覚えていた。しかし、覚えていたのは一ヶ月分だけで、それより前のことは思い出せない。

 これは、どういうことなのだろう……。

 最初は、忘恋病が治ったのかと思った。喜びかけたとき、すぐにもう一つの可能性に気づく。

 航哉への恋愛感情がなくなっているのかもしれない。

 忘恋病は、恋の記憶だけが消えてしまう病気だ。つまり、恋をしていなければ、その人との記憶は消えない。

 そんなはずはない。だって、私はちゃんと、五十嵐航哉に恋をしていたはずなのだから。

 優しくて、格好良くて、何度も私に恋をさせてくれていたはずの航哉のことを、好きじゃなくなるなんて、あり得ない。

 すぐに私の忘恋病を診てくれている濱口はまぐち医師に連絡し、検査もした。が、結果は変化なし。忘恋病は治っていないという判断が下された。

 記憶が戻っていることを伝えたが、濱口医師も、彼に対する気持ちが、恋ではなくなったのではないかと、若干言いづらそうに告げた。

 そこから家に帰るまでの間は、何も考えないようにしていた。そうしないと、今にも涙が出てきそうだったから。

 自分の部屋のドアを閉めた瞬間、こらえていたものがあふれ出してきた。

「……どうして」

 どうして、航哉の記憶が消えていないのだろう。おかしいじゃないか。だって、航哉は私の運命の人だ。こんなに好きなはずなのに。

 一ヶ月分の記憶しかないけれど、その一ヶ月だけで、航哉がとても素敵な男の子だということは、十分すぎるほどにわかっていた。

 私にはとてももったいないような、優しさと頼もしさにあふれている人だ。

 そんな航哉との夏休みの思い出が、たしかに私の頭の中にある。

 かき氷を食べて、頭痛をこらえる二人。

 夜空に打ちあがった花火を見る、彼の無防備な横顔。

 つないだ手のぬくもり。

 誰もいない公園で、頰に触れた柔らかい感触。

「お願い……。消えてよ。航哉との記憶は、消えてなきゃおかしいのに。なんで……消えてくれないの」

 涙はとめどなくあふれてくる。

 航哉との記憶を一つひとつ振り返るたびに、そのときの幸せな気持ちと、それを飲み込んでしまうような、どす黒い不安が湧いてくる。

 恋の記憶が消えるなんて厄介な病気だと思っていたのに、消えていないことで、こんなに苦しむことになるなんて、思ってもいなかった。

 色々と考えた結果、私は記憶が消えたふりをして、航哉と接することにした。

 五十嵐航哉は、私の記憶どおりの男の子だった。本人の声を聞いて、実際に目にして、やはり先月の記憶が残っていることがわかった。さらに、二人で写っている写真を見せてもらったところ、記憶どおりの私が写っていた。

 ここまできたらもう、私は彼のことを覚えているのだと、認めるしかなかった。

 覚えているのに忘れているふりをするのは難しかった。たまにボロが出てしまっていたかもしれない。航哉が気づいていたのかはわからない。もしかすると、気づいていたけれど、気づかないふりをしていたのかもしれない。

 そうだとしたら、私たちは噓だらけの恋人だ。

 定期健診でも、検査結果に変わりはないと言われた。それがわかっても、私はまだ、実は忘恋病が治っているのだという可能性に縋ることをやめなかった。

 なぜなら私は、五十嵐航哉に恋をしているはずだから。

 先月だって、航哉は素敵な彼氏だった。私にはもったいないくらいの。

 私たちの関係は、周囲には秘密にしているけれど、本当は自慢したいくらいだ。

 だけど――このまま次の満月でも、記憶が消えなかったらどうしよう。

 私は不安で仕方がなかった。

 きっと、今回は何かの間違いで、次の満月の日には、私の中から航哉の記憶はなくなっているはずだ。必死にそう言い聞かせて、なんとか不安を飲み込もうとする。

 それでも、私は頭の片隅に、絶望的な未来を思い描いてしまう。

 五十嵐航哉は、私の運命の相手だ。

 だからこのまま、いや、今以上に、私は彼に恋をしなくてはならない。

 この一ヶ月で、彼のことをもっと好きになる。

 そうすれば――次こそはきっと、満月が私の恋を奪うから。

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