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「まとめて払っちゃおうか?」
「自分の分は自分で出すよ」
伝票で値段を確認する要人に、私は言う。こういうところで貸し借りは作りたくない。
「ん。じゃあ、八百五十二円」
要人はサラッと暗算してみせた。私は言われた通りに小銭を取り出す。
「やっぱり、理数科ってすごいよね。私、数学とか本当に苦手だからさ。尊敬する。あ、聞き慣れてたらごめんね」
「ううん。何回言われても嬉しいよ。体育の授業がスポ科と合同なのは勘弁してほしいけどね」
スポーツ科もまた、すごい人たちの集まりだ。全国レベルで活躍している選手もいる。うちの卒業生がオリンピックにも出ていたという話も聞いたことがあった。
「それは大変だね」
「この前の体育、長距離走だったんだけど、スタートから三十秒も経たないうちに、集団が綺麗に二つに分かれてさ、笑っちゃったよ」
「何それ。想像するだけで面白い」
「あ、そうだ。スポ科といえば、
スポーツ科の話題で思い出したらしく、要人が私に尋ねた。
「五十嵐……航哉」
私は少し考えてから答える。
「あの、バドミントンの人だよね。有名だし、知ってるよ」
校舎の垂れ幕に名前が出ていたはずだ。
「そうそう。バド部の部長で、しかも全国レベルのやつなんだけどさ、この前、足を怪我しちゃったみたいなんだよね」
「へぇ……そうなんだ。それは、なんというか、残念なことだね」
どういう反応を求めているのかわからず、私は無難に答える。
「うん。春奈……どうかした?」
要人は私の顔を覗き込む。思ったよりも近くて、一瞬、呼吸が止まる。
「え?」
「なんか、浮かない顔してるから。気のせいだったらごめん」
「あ、いや。五十嵐くん、足の怪我は大丈夫なのかなって……」
「どうなんだろ。でも、春奈は優しいよね。別に、関係ない人のことなんて、気にしなくてもいいのに」
ちょっとだけ冷たくなった彼の態度に、私は違和感を抱いた。
「同じ学校だし、関係なくはない……と思う」
言っているうちに自信がなくなってきて、声は小さくなる。たしかに、無関係な人のことまで気にかけていたらきりがない。それはわかるけれど……。
自分のリアクションは不自然だっただろうか、と少し心配になる。
「要人は、五十嵐くんのことが嫌いなの?」
スマートな印象があった彼が否定的な意見を口にするのは意外だったので、私は尋ねてみる。
「ん、そういうわけじゃない。ちょっとやきもち焼いた。不快にさせちゃってごめん」
恋人だったら喜ぶべきところなのだろう。だけど私はまだ、彼のことをほとんど知らない。
「ううん。大丈夫。でも、やきもちなんて焼くんだ」
「うん。春奈のことが好きだからね」
本日何度目かのストレートな表現にびっくりして、私は固まってしまう。
本人に照れている様子はない。だからといって軽薄な発言とも思えず、私は動揺を隠すので精いっぱいだった。
「……それはどうも」
私の照れ隠し混じりの素っ気ない反応を楽しむかのように、要人は微笑みながら、じっと見つめてくる。その真っ直ぐな視線に、上手く呼吸ができなくなる。
「要人はさ……どうして私のこと、好きになってくれたの?」
口に出すのは恥ずかしかった。だけど、どうしても聞いておきたかったことだ。少しでも、不安を解消したかった。
「う〜ん。春奈の好きなところなんて、数えきれないくらいあるよ。例えば、優しいところとか、真面目なところ。それと……友達は多いのに、遠慮して少し壁を作っちゃうところとかも。あと、普段は控えめなのに、いざというときには意外と大胆なところも素敵だと思うし――」
「わかったわかった。もう大丈夫!」
大きめの声が出た。恥ずかしくて、顔に熱が集まるのがわかる。
素直に嬉しいと感じた。だけど、彼の言葉はどこか偽物みたいだとも思った。
私にとっては今日初めて会話をする人だ。だけどちゃんと、心臓は鼓動を速めていて、自分の本当の気持ちがどこにあるのか、わからなくなってくる。
本来なら、もっと喜んだり、同じ気持ちだということを言葉にするべきなのだろうが、残念ながら、私が彼を知ってからまだ半日も経っていない。だから、好意を伝えてもらっても、嬉しい気持ちよりも、戸惑いの方が大きかった。
それだけじゃない。
五十嵐航哉という名前が出てきたことに対する、驚き、不安、そして胸の痛み。
色々なものがぐちゃぐちゃに混ざって、私はちょっとした混乱状態になっていた。
「じゃあ、払ってきちゃうね」
要人は伝票を持って席を立つ。私はグラスに半分くらい残った水を飲みながら、先ほどの要人の台詞を思い出していた。
『春奈のことが好きだからね』
噓を言っているようには見えなかった。
だからこそ、何もかもがわからなくなる。
いったい、これまでの私は誰に恋をしていたんだろう。
だって、少なくとも昨日までの二ヶ月間は、私の恋人は五十嵐航哉だったはずなのだ。
私に変化があったのは、今から約一ヶ月前、夏休みも終わりに近づいた八月の下旬のことだった。
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