8
気がつくと私は足もとに青白い
それはなんだか大きな舞台ステージのようなところだった。
見上げると真っ白で強い光が瞳に刺し込み、おもわず目蓋をギュッと閉じた。
そして顔を戻し、再びゆっくりと目を開くといつのまにかそこにゴールデンハムスターが二本足で立っていた。
ハムスターと私はだいたい同じぐらいの背丈で、もちろん胸元や腰回りは私の三倍かそれ以上の太さがあり、その短い両腕をだらりと垂らし、腰から下は漂う靄に消えている。
「楽しかったなあ」
ハムスターがその二本の長い前歯をボソボソと動かした。その声はやや高く、なぜか関西弁のイントネーションだった。
「ねえ、そう思わへん」
彼はそう問い掛け、突き出した鼻をなにかを嗅ぎ付けるようにピクピクとさせた。
私はただ黙って言葉を喋る不可思議なハムスターを見つめた。
真っ黒な瞳。
ピンと横に張ったやや不揃いな長さの髭。
少し萎れたような形の片耳。
そして茶色と白のその毛色模様。
大きさは違えど、それは紛れもなくぽん太の姿だった。
「どうして……」
私は虚な声で呟いた。
それが夢であるとは気がつきもしない私はいくつもの疑問すべてをそのどうしてに込めるしかなかった。
するとぽん太はふたたび鼻をピクピクと動かし、それから片腕を持ち上げて私の右斜め後ろに向けた。
「じつは、あの猫さんが連れてきてくれたんや」
振り向くとたしかにそこに毛足が長く青い瞳をした真っ白な猫が靄に浮かぶように前脚をそろえて静かに座っていた。
その猫は子供だった私の目にもどこか神仏めいて映った。
たとえばそれは通学路の途中にポツネンと立っているお地蔵さんに雰囲気が似ているような気がした。
私はちょこんと頭を下げた。
すると白猫も軽く頷いた。
それからそのふさふさとした尻尾を一振りした。
こちらは気にしなくていい。
その仕草がなんとなくそう告げたように思えた。
「でも、どうして……」
私は視線を戻し、また同じ言葉を呟いた。
「まゆちゃん、泣いてたやろ。そやから」
「だってぽん太、私……」
足の裏に不吉な感触が甦り、涙が込み上げた。するとぽん太はブンブンと大袈裟にかぶりを振る。
「ええねん。僕、ちっとも恨んでなんかないよ。それに僕、まゆちゃんにお礼を言いに来たんやから」
そんなはずない。
ぽん太を踏んでしまった自分が許されるはずなどない。
今度は私が小刻みにかぶりを振った。
「本当やで。だって、楽しかったもん」
その言葉に私はうつむき、再度首を横に振る。
すると目蓋に溜まっていた涙が左右に飛び散り、私は両手で顔を覆い、それから堪え切れずその場に膝を折った。
「なあ、もう泣かんといて」
それまでよりずっと近くに聞こえた声に顔を上げるとぽん太の白いお腹がすぐ目の前にあった。
「お別れは悲しいけど、まゆちゃんが泣いたままやったらもっと悲しい。そやから泣き止んでよ」
私は綿毛のようなぽん太のお腹に抱きつき、ウワンウワンと泣いた。
「なあ、お願いやから、もう泣かんといて。僕、笑ってるまゆちゃんが好きや」
直に皮膚から届くぽん太の声が私の鼓膜に不思議な音で響いた。
「……ごめんね、ごめんね」
ぽん太は声を振るわせる私の背中に腕を回し、優しく抱きしめてくれた。
「ええねんよ。僕は大丈夫。次のところに行くだけやから」
「次の……ところ? 」
顔を上げるとそこに前歯を見せて笑うぽん太の顔があった。
「そう、次のところ。僕もどんなところかは知らんけど、あの白猫さんは悪いところやないって教えてくれたよ。そやから心配せんといてな」
その言葉に私はようやく嗚咽を抑え込み、そして涙声で叫んだ。
「じゃあ私もそこに行く。そしてぽん太と一緒に暮らす」
「気持ちは嬉しいけど、まゆちゃんはまだあかんよ」
ぽん太が髭を少したたんだ。
「どうして」
呆然とそう呟くとぽん太は少し首を傾げる。
「さあ、なんでやろね。でも絶対にそれはあかん。決まり事ってあるやろ。誰かに教えてもらわんでも分かってること。たとえば僕がどんぐりを齧ったらダメやって分かってたみたいに」
私は拳で涙を拭い、ぽん太の顔を見上げた。
「どんぐり、美味しくないの」
「だって僕、リスやないもの」
そう答えて生真面目そうに澄ましたぽん太に私はおもわず顔をほころばせた。
するとその私を見てぽん太も髭を大きく動かして笑う。
「うん、やっと笑ってくれた」
ぽん太は私から手を離して元の立ち位置までゆっくりと後退った。
「もう行っちゃうの」
私はゆっくりと立ち上がり、ぽん太の真っ黒な瞳をじっと見つめた。
「うん、そろそろね」
また泣き出しそうになったけれど、私は歯を食いしばってなんとか堪えた。
「大丈夫。僕はいつでもまゆちゃんのそばにおるよ」
「でも、次のところに行っちゃうんでしょ」
「そう、この世界に居った僕はな。けどまゆちゃんの中の僕はいつまでも居るよ。そんで時々出てくんねん。まゆちゃんが必要とするとき、僕は必ずそばにいてあげる。僕はまゆちゃんと一緒に生きてるから」
その言葉に私はヨロヨロとつんのめるようにぽん太に歩み寄った。
もう一度ぽん太に抱きつきたかった。
けれどそれは叶わなかった。
ぽん太の頭の上にはいつのまにかあの白猫がいた。
そしていくら私が足を前に運んでもぽん太との距離は縮まるばかりか、少しずつ離れていくようだった。
私は立ち止まり、何度も出せる声の限りにぽん太、ぽん太と叫んだ。
「ありがとう。僕、楽しかった」
電波が途切れそうになったラジオみたいにぽん太の声が掠れて聞こえた。
そしてぽん太と白猫はゆっくりと青白い靄の中に消えていった。
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