若宮尊の煉獄

 兄さんは素晴らしいひとでした。

 そのことは誰もが知っていると思います。いまさら僕が語るまでもありません。

 もし、兄さんを讃える言葉を僕の口から聞きたいのであれば、それは人選を誤っていると思います。兄さんは友達の多いひとでしたから、僕よりもよほど言葉をつくしてくれる方がいるでしょう。大勢いるはずです。

 僕は、それほど面白いことは言えません。

 兄さんは天才でした。それでいて、僕達家族の前ではそれを鼻にかけるようなことは全くありませんでした。とても優しくて、強いひとでした。僕に言えるのはそれぐらいです。

 本当です。僕からお話しできることは、以上です。


 ああ、一つだけ。

 僕や姉さんに話を聞きに来てくださるのはかまいません。僕は姉さんほど面白いことは言えないのですが、できる限りお答えするつもりです。先程お話ししたとおり、僕が話せることは少ないですけど。なにしろ、僕は姉さんほどは、兄さんと同じ時間を過ごせていないものですから。

 お控え頂きたいことがあります。

 弟の蘇芳すおうと、妹の一果いちかには、兄さんの話を聞きに行かないでほしいのです。

 彼らは僕以上に、兄さんのことをよく知りません。兄さんがどんなひとだったか、彼らはなにも知りません。

 だから、聞いても無駄です。

 ゆめゆめどうかお願い致します。

 あの子達に兄さんの話をさせることは、お控えください。


***


 本当は僕にだって、兄さんの話を聞きに来てほしくはない。

 僕は兄さんほど作り笑いがうまくできない。いや、作り笑いだけじゃない。僕が兄さんよりうまくできることなんて、この世に何一つなかった。

 いつか耐えられなくなって、下手な作り笑いすらできなくなって、この穢らわしい胸の内をすべてぶちまけてしまうんじゃないかと思うと恐ろしくなる。そんなのは僕が一番許せない。僕は兄さんの美しい思い出に泥を塗りたくない。兄さんは何も悪くない。何も悪くないのだ。何も悪くないから。

 いっそ、兄さんがあんなに優しくなければ、僕もこんなに苦しまなくて良かったのかもしれない。

 兄さんがあんなに完璧じゃなければ。僕に優しくなければ。僕ができないこと、兄さんのように速く走れないこと、それを笑うことなく、無理をする必要はないと励ましてなどくれなければ。気負うことなんかないよと、口元を綻ばせながら頭を撫でてなどくれなければ良かったのに。

 いっそ兄さんを憎めたら、どれほど楽だっただろう。

 兄さんは完璧だった。完璧すぎた。

 そして、僕は兄さんのことを知りすぎている。

 あんなに強くて美しくて優しいひとを憎むことなんて、僕にはできそうもない。

 きっとこれからも、僕はこの汚い感情を抱えて飲み込んで、兄さんを愛おしく懐かしむことも、あるいは憎むことも何一つできずに、ただ生きていくのだ。

 そうするしかないのだ。

 僕のすべては兄さんに与えられたも同然だ。今生きていることも。だからただ生きるしかない。兄さんが与えてくれたから。

 若宮みことという、この名前すらも。

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