若宮十流のこと

倉林界登の後悔

 若宮十流が藤井翔馬に惨敗した春の大会で、俺は5位だった。

 あの美しく気高く強く優しい男が誇りプライドを滅茶苦茶に砕かれるのを目の当たりにして、俺も衝撃を受けたものだ。自身も敗北しているのだから当然悔しさはあったが、それ以上に、俺よりも強い男がこうもあっさりと、という新鮮な驚きがあった。

 若宮十流も大概であったが、藤井翔馬もまた時代に愛された天才だった。周囲を寄せ付けぬ絶対的な強さは、暴力的なまでに俺達を打ちのめした。おまけに当の本人は、おそらく俺達のことなど視界にすら入っていない。唯一その瞳に映る権利を得たのは、それこそ若宮十流くらいなものであろう。

 藤井翔馬のそれは、ともすれば傲慢ともとれる実に不遜な態度であったが、あれほど強ければ当然かと俺は妙に納得してしまった。だが俺も男である。そうやって納得したままではいられない。もっと強くならなければ。

 藤井翔馬もまた、俺にとっての倒したい相手となったことは言うまでも無い。


 その機会は存外早くに訪れた。

 初夏の全国大会で、俺達は再び相まみえることとなった。その頃にはすっかり俺達の世代は藤井・若宮の二強体制という見方が強く、第三勢力の勝利を予想する者は少なかった、と思う。

 だが、負けることを前提に大会に挑む者などいない。まして俺は、いや俺達は、自分一人ではきかない大勢の夢を背負っている。親友である陸月の見ている前で、むざむざと負けることなどできない。たとえ相手が藤井翔馬と若宮十流であったとしても。

 俺はひとつの賭けに出た。そして、その賭けは成功した。

 ……俺はこの日のことをあまり多く語りたくはない。なので結論のみ記すが、俺は藤井翔馬を、そして若宮十流を破って、全国大会で優勝した。この日、俺は日本一と相成った。そのことだけは、紛れもない事実であるはずだ。何と言われようと、俺はこの日、藤井翔馬を確かに倒したのだ。

 無敗の王者である藤井翔馬を倒せば、俺も彼の視界に入ることを許されるだろうと思った。

 だから1位でゴールテープを切ったとき、俺は彼らに並び立つ権利を得たという喜びで頭がいっぱいだった。故郷に眠る、今はもっと遙かな高い場所に居るのであろう俺達の大切な師に勝利を捧げることができた喜びよりも、ちっぽけな自尊心の高揚のほうが勝ってしまった。

 俺は万感の思いで振り返った。最後の数メートルで、藤井翔馬を確かに追い抜いた。そういえば若宮十流はどこにいたのだろう。あれほどの男が、表彰台にのぼる位置にいた記憶がない。走り追えた直後でまだ脳に酸素が回っていないから、気付かなかっただけかもしれない。いや、そんなことより、俺は確かに勝ったのだ。確かに彼らを倒したのだ。藤井翔馬は俺を見てなんと言うのだろう。これで俺の名を覚えてくれるだろうか。

 藤井翔馬はさすがというか、俺ほど息切れしていないように見えた。ただ右腕で静かに汗を拭い、そして黙って俺の方へと歩いてきた。俺は胸を躍らせた。握手をしようと慌ててユニフォームで手汗を拭い、差し出す。藤井翔馬の右手は、差し出した俺の右手を素通りして、俺の胸倉をやにわに掴んだ。


「てめえは一体なんだ」


 低く、怒りに満ちた声だった。

 俺は頭が真っ白になった。

「……え、あ」

「てめえは、一体、なんなんだ」

 真っ白になった頭をなんとか回転させ、考える。質問の意図を。

「……お、俺は」

「てめえが誰かなんて俺はどうでもいい。反則すれすれで俺に勝ってそんなに嬉しいか」

「それは」

「なんで俺に勝つのがお前なんだ」

 弁解しようと開いた口が固まる。

 ああ、そうか。本音はそこか。不思議と俺はまた、納得していた。

 そうして気付いた。

 強い怒りと気迫に満ちて鼻がつくほど俺に顔を近付けてきている藤井翔馬はしかし、俺のことを全く見ていなかった。

 俺は、彼の視界には入れない。

 自らの血が巡る音まで聞こえる気がする。喧噪が耳から入って身体を支配する。激高する藤井翔馬を前に、他の選手達もざわついていた。誰もが俺達を見ている。脳がいやでも周囲の声を拾って、理解する。ここに俺の味方はいない。俺のような選手に反則すれすれの戦法で負けた、藤井翔馬に同情している。

 力が抜けそうになる、震えそうになる脚を叱咤する。いけない。せめて無様だけは晒してはならない。彼が俺を見ていなくても、俺は彼の目を見て、言うべき事を言わなければならない。

「……接触しそうになったことは、謝罪する。この通りだ。だが、俺は反則など犯しては」

「黙れ。……思い出した。お前、千葉の倉林界登か。新聞で見たぞ」

 その一言で突然、恐ろしくなった。おそらく彼は俺を許さないだろう。このまま一生、手を離してくれないのではないだろうか。俺のことは見てくれないまま。もはや先程までの歓喜は一瞬にして霧散し、この頃にはもう俺は恐怖で頭がいっぱいになっていた。藤井翔馬はひどく怒っている。これ以上何か言われるだろうか。皆の目の前で。俺は何と言われようが構わない。でもこのままでは、俺の行為のせいで俺達の師までもが皆の前で侮辱されるのではないかと思うと、足下が崩れ落ちるような心地がした。

 藤井翔馬が口を開く。彼が何を言おうとしているのか、最悪の想像がよぎる。俺は思わず目を閉じていた。

 その時だった。

「はいはいそこまで」

 俺と藤井翔馬の間に、割って入る影がある。

 若宮十流だった。

「何をさっきからキレ散らかしとんの君は。負け惜しみは格好悪いで」

 若宮十流はフリーズしている俺の肩をあやすように二度軽く叩いて下がらせると、微笑みを絶やさぬまま藤井翔馬に対峙した。

 彼の登場で、剣呑な空気が微かに緩む。藤井翔馬も僅かに怯んだようだったが、すぐに眉根を寄せ怒りの表情を浮かべると、若宮十流の左腕を掴み、強く引いた。

「……ッ元はと言えばお前が、」

「痛っ!」

 今度は藤井翔馬がフリーズする番だった。俺も再び硬直した。おそらく遠巻きに見ていた他の選手達には届いていない、俺達二人にしか聞こえないほどの小さな声だったが、それは確かに悲鳴だった。ただごとではない声色だった。俺も藤井翔馬も、彼の声を聞いただけですぐに察した。

 おそらく彼の左腕は負傷している。

 若宮十流はすっと表情を消すと、小さく舌打ちをした。それから静かに左腕を引いて、代わりに右手の人差し指を、その上品な口元に立てた。しぃー、と小さな声で諫めるようにしながら、俺達を交互に見て悪戯っぽく微笑む。

 藤井翔馬は呆然と立ち尽くしていた。若宮十流だけをその視界に収め、何かを言おうと口を開いては閉じ、そのまま言葉を飲み込むことを繰り返した。そうして何かを恥じたのか、端正な顔を真っ赤に染めて一言「くそっ」と呟き、あとはただ静かに俯いていた。藤井翔馬が何かを飲み下すまで、若宮十流は黙って彼を見つめていた。彼が静かになるのを待って、右手を伸ばしてその背中を穏やかに叩く。言葉はなかった。言葉はなくとも、彼らには通じ合うものがあっただろう。交錯する視線が何よりも雄弁に物語っていた。

 俺もその場に立ち尽くしていた。藤井翔馬とは対照的に、俺の顔はきっと真っ青になっていただろう。

 俺は本当に、実力で彼らを倒したのだろうか。若宮十流はいつからこの状態だったのか。俺は、ここにいていいのだろうか。ここにいてはいけないのではないだろうか。俺は見てはならないものを見た。見る資格のないものを見た。俺は彼らに並ぶことはできない。立ち入ることはできない。彼らの視線が語らう内容を、察することはできない。彼は俺達の間に容易く割って入りこの場を納めて見せたが、俺は彼らの間に割って入ることはできないだろう。今までも。これからも。

 ただただ、苦しい。ここにいたくない。頬が、指先が冷たい。確かに俺は若宮十流に助けられたというのに、こんな思いをするくらいならば、まだ藤井翔馬に詰られていたほうがましだった。いっそ殴ってくれたほうが、何十倍もましだった。

 そしてこんな気持ちになること自体、彼らに申し訳が無かった。

 俺はよほど青い顔をしていたのだろうか。気付くと若宮十流が、手を握ってきていた。白魚のような指は、その見た目に反してひどく温かかった。

「倉林さんは悪うないよ。このアホの負け惜しみは気にしたらあかんよ。……ほら、せっかく勝ったんやから、もっと胸張らな。なっ」

 俺はただ黙って頷くことしかできなかった。


 それから、どうやって表彰台に上ったのか、インタビューに答えたのか。俺は全く覚えていない。

 栄光の日であったはずだ。もっと胸を張るべきであったはずだ。頂点に立ったのだから。そうでなければ、共に戦った同世代のすべての者たちにも申し訳が立たない。それなのに。

 俺は自分が情けない。

 思い上がりだった。何もかも間違えてしまった。

 こんなことなら、手を伸ばすべきではなかったと、そう思ってしまった。

 届くはずのない星々に。

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