第五話 夢の国での別れ
こんな道草をしている暇はなかった。夕暮れになる前に急がなくては。結奈が喜ぶ遊園地に立ち寄るならば、なおさらだ。母さんをもえぎの里に送り届けてから、東京まで帰らなくてはいけない。
主人は母さんに確認しながら、スマホでメリーゴーランドのあるところを探していた。ホスピスへの帰り道で、絵本に出てくるようなイギリスの片田舎風のおとぎの国に出会えた。レンガ造りのコテージの前には花園が広がり、せせらぎの脇には木戸が隠れていた。
扉をそっと開けると、シカの人形が別世界へと誘ってくれるように一列に並んでいた。目の前に続く小径には子供たちやワンコが楽しそうに駆け回り、鳥のさえずりや昆虫の羽音が自然の音楽を奏でていた。
大きくて丸い耳で豊かな表情を浮かべて、可愛らしい仕草で愛されているネズミの姿は見当たらなかったが、皆が知っている青い上着を着た誰よりも耳がいいウサギが遊んでくれて、子供たちの夢があふれていた。その光景は私が大人になるにつれ、心の片隅に置いたままで、忘れてしまった世界だった。
八ヶ岳南麓からの心地よい風が「もう少し肩の力を抜いたらいいのに」とささやいてくれた。母さんの言うとおり、小高い丘の上にはとても可愛らしい森のメリーゴーランドがあり、軽やかで夢あふれるワルツの音色が鳴り響いていた。
大人になっても、回転木馬の楽しい踊りを見ているだけで心が弾んだ。いつしか、私も無邪気さを取り戻していった。私の気持ちを察してくれたのか、母さんが得意げに口元を緩めて言った。
「嘘じゃなかったやろ。あそこに葉巻をくわえたジェントルマンがいるはずだよ。ふたりで若い頃に来たことがあるから、何でも知ってるんや」
すぐそばに見える小高い丘も父さんとのデートコースだと聞いて驚いた。しかも、母さんは細かいことまでよく覚えていた。彼女の視線の先には、父さんに似ている男の人形が日向ぼっこをしながら、ベンチで葉巻を燻らしていた。
メリーゴーランドには、白馬だけでなく、ダチョウやニワトリ、ウサギなどがクルクルと楽しそうに回っていた。娘は目を輝かせながら、白馬に乗った男の子を見つけて、はしゃいでいた。
「皆で一緒に乗ろう。早く、早く。ばっちゃんはわたしの隣だよ。ママとパパは向こうに座ってね」
結奈は本当におしゃべりな女の子だった。母さんは彼女の背中をしっかりと支えながら、私より先にオレンジ色のハロウィン馬車に乗り込んだ。夫が遊園地のスタッフにカメラを渡して、何か頼みごとをしていた。
母さんは娘の隣に座れて、嬉しそうに明るい笑顔を浮かべていた。皆がそろって馬車に乗り、空を見上げると、夕焼け雲が赤く染まり、もえぎ色の山並みにお日さまが少しずつ隠れていった。ホスピスへの帰り道、母さんは結奈を抱きしめて頬ずりすると、さりげなくひと言だけ口にしてきた。
「今日は最高に楽しかったよ。皆、ありがとうなあ……。結奈、ママの言うことをちゃんと聞いて良い子になるんだよ」
母さんの意外な言葉に心が動かされた。海の波が岸に寄せたり返したりする響きのように、強く胸を打たれていた。夫も少し目頭が熱くなったように何度もうなづき、私の涙に気づいたのか、ハンカチを渡してくれた。でも、母さんの瞳を見ると、その優しさの陰に消えゆく炎のような影が見え隠れしていた。
「うん。ばっちゃんも、元気でね」
結奈はいつもながらの無邪気な言葉で答えた。でも、私の気持ちを感じ取ったのだろうか……。彼女の瞳にも別れを惜しむように、少しだけ涙が浮かんでいた。
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