第四話 想い出めぐり


「ああ、懐かしいなあ……。夢みたいや。あのログハウスのぬくもり、赤い屋根。遠い昔に来たんだよ。あのレストランから明かりが漏れているのが見えるでしょ。結奈もお腹が減ったころだね。ちょうど良いタイミングだよ」


 私は、母さんの話を聞いて、我が目を疑った。


 母さんの瞳には、この場所の思い出が映っていた。若かりし日にこの街で働き、恋に落ちた日々。私は、今日までそのことを知らなかった。車を降りて、母親に誘われるまま花壇が続くメインストリートを歩いてゆく。人の気配のない道には、私たちの足音だけが静かに響いていた。



 娘は楽しそうに車椅子を押していた。母さんは嬉しそうに、昔話をしてくれた。学生の頃に友達と一緒にこの街のレストランでアルバイトをしたという。一か月間、住み込みで働いていたときに、食事で訪れた父さんと出会ったそうだ。

 それは、今でも胸が熱くなるような恋物語だった。こんなにゆっくりと母から話を聞くのは初めてだった。


 ふたりが出会った頃の清里高原には、お土産を売る店やレストランがたくさんあって、若者たちで賑わっていたらしい。

 母さんたちの初めてのお泊りデートは、もえぎの里の湖畔にたたずむホテルだった。新婚旅行も、海外に行くのをやめて、八ヶ岳にスキーに来たと教えてくれた。


 ふたりの恋は、この街で始まり、深まり、結ばれたのだ。母さんは、そのことを嬉しそうに話してくれた。こんなに素敵な物語を、なぜ隠していたのだろう。私は、好奇心と尊敬のまなざしで母さんを見た。


「初めて聞く話だけど、なんで教えてくれなかったの」


「いくら実の娘にでも、恥ずかしくて言えないこともあるやろう。今なら言えるけどな。そんなことより、早くレストランに行こう」


 母さんは、照れくさそうに笑った。だったら、言わなければいいのに。でも、夫は私を見て、微笑んだ。なんで、こんなときに味方をしてくれないのだろうか。都合が悪くなるとすぐに黙ってしまうのだから。本当に困った旦那だ。


 牛のイラストが描かれた手作りの看板に従って小道を抜けると、目の前にログハウスの赤い屋根が現れた。明かりが灯るレストランだった。ゆっくりとスロープを皆で歩調を合わせて上がった。近くには小川が流れているのか、心地よいせせらぎが耳に届いてきた。


 母さんの満面の笑みを浮かべる懐かしそうな表情に気づき、私はすっと肩の荷を下ろした想いとなり心が洗われた。


 突然に私は、なぜか母親をちょっとだけいじってあげたい気分になった。母さんの笑顔があまりにも幸せそうで、私も一緒になって楽しくなってきたのだ。


「もしかして、行きたかったのはここ? 」


「そうや、素敵なお店やろう。昔のままで変わってないなあ。店が開いていて良かった。ところで、結奈は何を食べたい?」


「お子様ランチ」


 娘は外食するといつもそう言っていた。私たちは、木立に囲まれた心地よいテラス席に案内された。優奈の目の前に運ばれてきたのは、小さな器のキッズパスタに牛さんマークのプリンが盛られており、豚さんの旗が風になびいていた。娘は喜んで手を叩いて、さっそくスプーンを持った。  

 私たち大人の三人は、石窯で焼かれた野菜たっぷりの大きなピザを分け合った。とても美味しかった。母さんも食欲があったのか、大きな口を開けていた。食事をしていると、またもや優奈がわがままを言ってきた。


「おばあ、遊園地に行きたい」


 私は少しイラッとしたが、母さんは優しく微笑んだ。


「ここは東京じゃないの。おばあちゃんの心の故郷なんだから。いい子でおとなしくしてなさい。おうちに帰ったら連れていってあげるから」


 今日は大切なひとときだった。娘のわがままに付き合ってはいられなかった。まだ幼いとはいえ、しつけも大切だった。


「つまんないの」  


 私の言葉に娘は口を尖らせて、不機嫌そうにした。でも、甘やかしてはいけないのに、母さんが口を挟んできた。


「あんたの幼い頃にそっくりや。遊園地なんか、すぐそこにあるやろう。ばっちゃんが案内してあげるから、プリンも残さずに食べなさい」


「ばあば、ありがとう。ママよりずっと優しいね。メリーゴーランドに乗りたい」



 娘は目を輝かせて言った。夫は娘の言葉にうなづきながら、その頭をなでていた。確かに母が病で倒れてからイライラしているのは自分でも分かっていた。気分を変えようと、皆をテーブル席に残して、店内を少しだけひとりで歩きながら見てみた。


 店内は広くてきれいだった。昼食をとっている女性客にも笑顔があふれていた。けれど、壁にかかるカレンダーの写真は、なぜかしら遠い昔にさかのぼっていた。それは母さんの若かりし日の風景だ。かつての名作映画で観たことのある、若い男女が青春を謳歌しながら“ひと夏の恋”を楽しむ原宿みたいな世界だった。

 ミニワンピースの女性たちが麦わら帽子をかぶったり、白い木綿の三段スカートをはいたり、黒髪の長いストレートのワンレンを風になびかせていた。彼女たちは、サングラスをかけたテクノカットの男性と手をつないで歩いていた。

 いずれも、令和の世の中ではめったに見かけないファッションだった。さらに、月めくりの暦は1990年7月のままだった。店の主人も観光客で賑わった頃が懐かしいのだろうか。いや、母さんの心の時計も幸せいっぱいのひとときを迎えて、この時から止まっていたのかもしれなかった。


 私は、そのカレンダーの写真に目を奪われた。母さんと父さんが写っていたのだ。ミニワンピースの女性とサングラスの男性は、まさに母さんと父さんだった。ふたりは、笑顔でカメラに向かって手を振っていた。

 私は驚きと感動で涙が出そうになった。母さんは、私にこの写真を見せたかったのだろうか……。私は彼女の幸せを分かち合いたかった。そして、感謝したかった。

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