第二話 七夕の思い出
母さんの天国への旅立ちが、近づいていると医者に告げられてから、私は自分を責め続けていた。もっと早く、彼女の体調がおかしいと気づいて、精密検査を受けさせればよかった。もうすぐ、私は母さんとの別れを受け止めなければならないのだろうか……。そう思うと、胸が締め付けられるような苦しさに襲われ、涙があふれて止まらなかった。
でも、母さんは平静を保っている。死を恐れていないのか、それともすでに受け入れているのか。老いも死も自然の摂理だと言って、笑顔を見せている。私には、そんな彼女の強さが分からない。自然と母さんの笑顔に涙がこぼれた。
「母さん、何か欲しい物はない? 何でも買ってあげるから」
「物なんか、いらない。あなたの笑顔が見たいの」
医者は、好きなものを食べてもいいと言ってくれたけど、母さんは欲しがらなかった。その言葉を聞いて、もう何ひとつ叶えてあげられない自分に苛立ちと寂しさを感じた。
「親子だよ。本当に水くさいのだから」
「なら、ふたつだけ。最期だと思って」
「もう、母さんたら……。最期だなんて、変なことを言わないで。先生だって治る見込みはあると言ってたじゃない」
母さんの言葉に、私は複雑な気持ちになった。本当は、彼女も分かっているのだろう。私は涙をこらえて、化粧室に駆け込んだ。ひとりで鏡を見ながら、濡れた瞳をハンカチで拭くと、少し落ち着いてきた。母さんのために、頑張らなくてはいけない。
母さんを車椅子に乗せて、病院の花園に連れて行った。彼女はいつも本を持って、森の木陰で春の訪れを感じて、ひとときを過ごすのが好きだった。そこには、色とりどりの花や鳥がいて、彼女はそれらに名前をつけて話しかけていた。
私たちは、木漏れ日の中で、ルピナスの花に囲まれていた。母さんは、その花のほのかな甘い香りに心を和ませているようだった。手を伸ばして花びらに触れ、そっと鼻に近づけた。
いつも親切な看護師さんと仲良くなって、八ヶ岳の花や鳥、風や月の話をよく聞いていたという。彼女は、「昨年の七夕には、屋上から彦星と織り姫を見せてくれた」と言って、嬉しそうに笑った。そのとき、鳥のさえずりが聞こえた。
「あれ、可愛い小鳥だね。八ヶ岳の守り神のカササギだよ。もうすぐ子どもが生まれるのかな」
母さんの声に誘われたかのように、小鳥のカップルが「キョーキョーキョー」とさえずり、枯れ木に跳ね歩いて「カチカチカチ」と時計のような音色を刻んだ。
それは、雄から雌への愛の告白らしい。初めて聞く珍しいデュエットだった。黒い模様の背中と、お腹の真っ白な色が目を引く魅力的な鳥だった。
母さんは「まだ、生きてるんだ」と嬉しそうに、大きく息を吸った。幸せそうに、小鳥たちを見つめた。もともと陽気で話好きな彼女だったが、最近は口数が少なくなっていた。でも、今日は元気そうで、何度も話しかけてきた。
「孫の
そういえば、ここ数年は、コロナ病のせいで、娘に会わせてあげられなかった。
「なんだあ、そんなこと。もうすぐ小学生だよ。おしゃまでお喋りで困るくらい」
私はスマホに残る結奈の写真を見せてあげた。そこには、ポニーテールに桜のリボンをつける娘が写っていた。母さんは娘の姿に微笑んで目を細めた。
「あんたの幼い頃にそっくりだね。時代が変わっても、親子はやっぱり似てる。行きたいのは、父さんのところだよ」
遠い昔のことだった。十年前、出版社に勤めていた父親は、取材から帰る途中に事故にあって亡くなった。私は、まだ十代だった。
あんなに泣いたのは、初めてだった。母さんも、ずっと涙を流していた。父さんと母さんは、とても仲が良かった。私も、そんな夫婦になりたいと願っていた。
母さんは、ちょっとおっちょこちょいで、いつも笑わせてくれた。私は、母親のことが大好きだった。私の結婚式には、父さんの姿はなかったけど、母さんは、父親の写真を胸に抱いていた。私は、それを見て、涙が止まらなかった。
「母さん、父さんはもういないんだよ。何を言ってるの」
「いや、いるんだよ。心の故郷に、夢の国を探しに。父さんと会うまで、まだ死ねないんだよ」
母さんはそう言って、私の手を握った。私は母さんの手が冷たくて、ほっそりしているのに気づいた。
「夢の国探し」とは、父さんが書いた遺作の本のタイトルだ。母さんは、父親が残してくれた本を大切にしていた。私も子供の頃に、母さんに読んでもらったことがあった。それは、不思議な世界に旅する物語だった。
母さんは、私に笑顔を見せた。私は、その笑顔が乙女のように可愛いことに気づいた。彼女は、今でも父さんと会いたいのかもしれない。私も、父親に会いたかった。
「母さん、父さんに会いに行こう。一緒に行こうよ。娘も連れて」
「本当かい。ありがとう、百合子、本当に行ってくれるのか?」
私は、母さんを抱きしめた。その胸が高鳴っているのを感じた。彼女と手をつないで、一刻も早く車に乗り込みたかった。父さんの待つ場所に向かって走っていきたかった。そのとき、私たちは、この上ない幸せを噛み締めていたのかもしれなかった。
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