~星めぐる方舟の奇跡~「母さんの心の故郷」
神崎 小太郎
第一話 星の祈り歌
春が訪れたというのに、私は失意のどん底の中、東京から長野へと向かっていた。
運転する車は、中央自動車道の制限速度の標識を横目に、二時間半の旅を経て清里高原へとたどり着いた。その丘には、日本で最初のペンション村と呼ばれ、心地よいミントの香りが漂う「もえぎの里」があった。
七夕になれば、夜空にカササギが飛び交う里を始発駅に、銀河を駆け巡る
そして、私の母さんは、人生で最期を迎える時、この上なく美しい星を眺められるホスピスという医療施設に入院していた。
早く母さんに会いたい、その想いは胸を焦がす。このままでは、涙が頬を伝い落ちるのも時間の問題だろう。それほどまでに、母さんに会いたいという切なさが、心を揺さぶっていた。
車を病院の駐車場に入れ、木立の合間に一歩足を踏み入れた。木漏れ日の中に、ルピナスの花が青空に向かって手を伸ばしていた。私は昇り藤の花のような美しさに心を奪われてしまった。
どこからか、パイプオルガンの奏でるメロディが、「祈り歌」のように聞こえてきた。もしかして、母さんが大好きなパッヘルベルのカノンだろうか……。
耳を澄ますと、滝からのゆらぐ水音まで聴こえて、母の病で傷ついた心が少しずつ癒されていた。
昨年、母さんは還暦を迎える検診で、思いがけず不治の病が見つかり、二回目の春をこの病棟で迎えていた。自宅での終末医療の介護は苦労が多いと聞いていたが、本当はもっと近くで彼女に寄り添っていたかった。
母さんの容態は大丈夫だろうか……。このところ思い悩むのは、母のことだけだ。私は姫野百合子。今秋で26歳となる。
子育てしながら保育士をしている。同居家族は主人とひとり娘であり、元々、母さんと同じ東京の町に住んでいる。結婚して子供を授かり、幸せの絶頂期を迎えて、突然、人生の岐路に立たされていた。
仕事の合間を見つけては、足繁くお見舞いに通っている。その度に、夫の協力で幼子を義母に預けてこれたことが救いである。いつも彼には感謝していた。
「やはり百合子か……、よく来てくれたね」
病室の扉を開けると、母親は娘が見舞いに来るのをあたかも分かっていたかのように、とっておきの笑顔で迎えてくれた。咳き込みながらも、私の手を握りしめた。
不思議なことに、母さんはふとんの合間からピンクのチューリップのアップリケが可愛いパジャマを覗かせ、うららかな日差しを名残惜しむように眺めていた。
いくつになっても、お茶目な女性だ。死に瀕して、いやがうえにも幼い頃の純粋で真っ直ぐな心に戻ったのだろうか……。
しかし、その笑顔の裏には、がんが全身に転移していることを隠せないほどのやせ細りと青白さがあった。
ベッド脇には父親と仲よく笑顔を浮かべるフォトフレームが大切そうに置かれ、一緒にまん丸メガネと「夢の国さがし」というタイトルの文庫本が並べられていた。彼女は若い頃からロマンチックな本が好きな女性で、長年にわたり図書館スタッフの司書として働いていた。
まだ、皺だらけのおばあちゃんではなかった。母親とは歳が三回り半ほど違うけれど、娘の私からしても、艶やかな黒髪で年齢以上に若々しく、羨ましくなるほど美しい女性だった。
「元気そうじゃない。何言ってるの。ついこの間会ったばかりじゃない」
私は強がりを言ってみたものの、残された時間は長くない。医師からは、命が続くとしても、せいぜい三か月だと告げられていた。今年の七夕を一緒に見ることができるだろうか……。涙をこらえるかたわら、精一杯の笑顔を取り繕っていた。
母の手を優しく撫でて、しばらく黙って見つめ合った。彼女は私に、自分の遺言を思い出させるように、木漏れ日が差し込む窓を指差した。窓から見える風景には、先ほど心を奪われたルピナスの花が咲いていることだろう。
「百合子、あの花、尖り帽子に金平糖が集まったようで可愛いよね」
「母さん。うん、似てる似てる」
「父さんとルピナスの花に囲まれて永遠の眠りにつきたいの。あなたは、幸せに暮らすんだよ。私たちの誇りだから」
母親は微笑みながら、そう言った。私は涙をこらえて、うなづいた。
「母さん、ありがとう。忘れないでそうするから」
私は我慢できなくなり、母さんに抱きついた。彼女は私の髪をそっと撫でながら、満足そうに目を閉じた。その時また、パイプオルガンのカノンの音色が心静かに届いた。それは、母親と私の最後の別れを祝福するかのような、美しい旋律だった。
母さんは病院嫌いなはずだった。なのに、自宅ではなく八ヶ岳の小高い丘にあるホスピス、自然豊かな地を
けれど、両親は「もえぎの里」をいつどこでどのように見つけたのだろうか……。
彼らの選択に、何か特別な理由があるような気がして、どうしても知りたくなった。
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