第4話 半同居生活の始まり

 朝日がベッドの縁に腰掛けている翔の頬を照らす。憂いを含む表情に、見とれてしまいそうになる。

 彼はこないだ知り合った男の子。

 そのつもりはなかったが、思えば思うほど元カレのことが頭いっぱいになり、すると、好きと似たような感情がいつも膨れ上がってくる。

 百歩引いて、顔も性格も、どれも共通点はなかった。これは明白な事実だ。

 心が動くのは、やっぱり元の記憶が作用しているからか。


 目が覚めたら、日本語のできる男性がちょうど近くにいる、そんな都合のいい展開はどう考えても怪しいのだ。

 まるで、わざわざ私のために用意したかのように。

 これは運命なのか。あるいは、神様の悪戯と呼ぶべきだろうか。

 だとしたら、悪趣味すぎるんだ。


「そろそろ行くぞ。」

「ん。」


 日常生活に支障が出ない限り、ずっと病院にとどまる理由もない。病因が見つからず、そのまま退院することになった。

 私の一件は迷宮入りとなり、医者たちもお手上げといったところだ。


「どうした?」

「いや、なんでもない。」


 慌てて顔から目線をそらすと、彼はすっと立ち上がり、左右に軽く伸びをした。長く座っていたせいか、腰の辺りから関節の音が絶えずしていてゾッとした。


「忘れ物をしないように、といっても昨日全部片付けたんだから問題ないか。外暑いし、髪結ったほうがいいぞ。最近の気温は冗談じゃない。」

「はぁい。」


 ここに来てもう三週が過ぎた。

 体的にもメンタル的にも疲れていて、ぶっちゃけ遊び気分が全滅してもうお家に帰りたい。ここの病床は柔らかくて快適だが、それでも自分の部屋のベッドが恋しい。

 あの時、ちゃんと親友の電話に出ていれば、こんな苦労せずに済むんだろう。いつも惚気話ばかりするせいで、プライドが許さなかった。


 スマホの自撮りレンズ越しに自分の姿を見る。

 おばさんおじさんばかり雲集する看護師と医者しか会わないから、身なりなんてずっと適当だった。

 細い指先で髪をいじる。さらさらだ。

 いわれた通り下ろしているな。どうしてだろう、今まで考えたことすらなかった。自分はどんな姿をしているのか、一度想像しちゃうと気になってきた。


 ほう、なるほど。

 どちらかと言うと、可愛いほうだ。

 一直線にそろう前髪、いわゆるぱっつんだという。

 細長い横髪と背中まで達する後ろ髪も、天然の黒であり、崩れやすい型にもかかわらず、じっくり整えれば小顔が際立つだろうし、気品も出てくるはず。七割の可愛さに三割の美しさ、これは男を落とす美貌だ。

 だか、ゴムはどこにあるかが知らなくて、ササっとポニーテールにできない。

 黒は熱がこもりやすい。冷房のある室内ならまだしも、前回のような高温で長時間移動するのは耐えられるかどうかが懸念される。


「ちょっと、何やってんの?私のキャリーバッグなんだけど。」

「確かこのへんに……あった。」


 翔は上の層からゴムとピンク色のシュシュを取り出した。伏せてスーツケースをまさぐるその様子が、まるで犬のようで心底ドン引きした。

 目が笑っていない造り笑顔でシュシュを受け取る。


「......ありがと。」

「手伝おうか?」

「大丈夫。これ以上手を煩わせたくない。」


 断りつつ、髪をブラッシュのいらない簡単な形に結ぶ。男の前なので一発で成功したいものだ。


「上手いな。」

「あんまりじろじろ見つめないでください。」

「おおっ、悪い。」


 仮に髪を結ぶ姿だけでも、嫌なことは嫌だ。


「ところで、誰が迎いにくるんだっけ?」


 ようやく崩れないように仕上げたごろ、訊ねる。


「俺一人しか。おばさんは仕事で来ない。それに、しばらくは運転を避けるようにしているそうだ。事故当時は不在だからって、やはりトラウマになっている。車もそのまま廃棄した。」

「じゃどうやって帰宅すんのよ?」

「自転車で。」

「……そんなもの持ってない。」

「んん、歩いてすぐステーションがある、そこからレンタルで行くんだ。」

「レンタル?ああっ、その手もあったのか。」


 短距離では、当然チャリもいい選択だが、私、こぐの下手だよな、大丈夫か?


「退院の手続きも済ましたし、よし帰ろ。」

「ちょっ、待って。」


 そう言い残して、翔は返事も待たずに立ち去ろうとした。

 慌てて追いつく私だが、もうすたすたと階段を降りかけている。ひどい、はぐれたらどうする気?


 ***


 バイクが多い。


 病院を後にして、最初に覚えた感想だ。

 マフラーから煙がいっぱい。

 それと雷鳴のごとく、脳を貫く轟音。想像より遥かに越えていた。

 日本と違って、サイズがやや小さい代わりに、外装が色とりどりで、交通量もすごかった。

 二倍、いや、三倍か。

 バイクをはじめに、自動車、トラック、バス、みんな同じ車道で走っても、渋滞にならない。

 まるで奇跡そのものだ。

 しかしそのせいで、自転車にこげる空間が一層狭くなる。歩道もぼろぼろで、とても通れる状態じゃない。これじゃどこに行けばいいか迷っちゃう。

 隣をバイクが疾駆するたび、足が乱れてぶらぶらしてうまくバランスを取れない。景色を楽しむ余裕なんて全然ない。


「大丈夫かよ?」


 乗りながら振り返て言う翔。


「なぜタクシー呼ばないの?」


 風に抗え、大声で叫ぶ私。


「金がない。」

「どれだけ貧乏だよ、お母さんからもらってない?」

「ない。」

「じゃあお小遣いとかは?」

「新刊小説に使った。」

「何よそれ?そんなところに使う?」

「そう。まぁ、一日中食べず飲みずにいたら、出せる。」

「もういいや、分かった。お願いだから前見て、見てるこっちが怖い。」


 こうして、騒ぎの中で二十分ほど移動すると。

 やがて私たちは地味なマンションの前に足を止めた。近くの駐輪場に自転車を戻し、二人で一階にあるロビーに入る。

 思った通り、ひどい暑さだった。

 あらかじめ対策をしたにもかかわらず背中まで汗まみれになり、髪もべとべと。まるでサウナに入ったような感触だ。

 これからは日差しの下で移動するのを避けたほうが良さそうだ。


 家は三階にある。

 建物の大きさを考えば、さほどゆったりとした空間ではないと思う。実際に入ると、案の定リビングは狭い。食卓と厨房の距離は約3メートルだけ、その間にぎりぎりテレビが設置されている。床にはすべてタイル張りで、玄関という概念が存在しないようだ。

 下手な真似をしないように、しばらくは入り口で待機する。


「えっと、下駄箱は?」

「適当に置いたらいい。」

「そう言われても……」


 多少片付けがおろそかになっても、せめて見た目だけにはきれいにすると思った。

 正直な感想言うならば、驚いた。あちこちにゴミが散らかって、匂いまでする。そんな中で、特にお酒のビンが多い。

 汚すぎる、普通の家庭が住む環境とは思えないほど狼藉なあり様だ。

 今日からこの家で日々を送らなくではならない、考えるだけで嘆きたくなる。


「はぁ……」


 隣からため息が聞こえた。


「────」


 後半は中国語の文句に変わったわけで、話の全貌は分からないが、嘆きたい気持ちは同じに違いない。たまにはこうやって、意味が伝わらないのに、その場の空気で分かる瞬間がある。


 部屋をめちゃくちゃにした犯人は誰なのかには、ほんのちょっとした推理ですぐ分かる。ここに住む人なら、死んだお父さんと入院していた私を除いて、残りは一人。翔の落ち着いた態度も含め、常習犯の可能性も十分。

 お母さんだ、アルコールに溺れている。

 でもまぁ仕方ない、いきなり同伴者を失ったもの。彼女なりに怨みを晴らす権利がある。


「ひとまず掃除だな。」

「そうするしかないね。」


 一番気に食わないのは、シンクの中に集めた使用済みの茶碗だ。そこにもう、小さな山ができた。

 視線を沿って、翔も同じ方向を見ると。


「厨房ね、そこからじっくりやりましょ。」


 なんて提案を出した。


「出来るの?」

「出来るよ、皿洗いぐらい。」

「割ったりしないでね。」

「はいはい。」


 そんなわけで、帰宅して間もなく、私たちは手分けして掃除を始めた。翔はキッチンとリビング、私はベッドルームとざっくりと二分することに。

 パット家を一周すると、部屋が三つあるのをわかった。

 外側に位置するのが親が使う部屋。ベッドは紛れもなくキングサイズだが、代償に、残る空間がやや狭い感じ。そこから右へ順に、希美の部屋とトイレットルームが並ぶ。お風呂はちゃんと揃っているけど、ちっちゃい。格安マンションだから最初から期待していない。

  これ以上考え事をしていると間に合わなくなるので、黙って腰をかがめて掃除を始めることに。


 ***


 ピカピカな壁と床、ただ観賞するだけでも満足させられる。汗をたくさんかいた甲斐があったな、と思っちゃう。


「上がったよ。」


 首にタオルを巻く翔からあいずが来た。

 次は私の番。

 残りをざっくり目を通して雑誌を閉じ、着替えをもって浴室へ向かう。


「しかし意外だな、まさかこんなに出きるとは。誉めてあげるね。」

「野村さんもすごいよ。俺だったら時間を倍にかかるし。」

「ふふ、もっと誉めて。」


 分かりやすく言えば、掃除って、物をもどの位置に戻すだけの単純作業に過ぎない。慣れさえすれば、子供でも簡単にできること。せめてこれで、翔はだらだらして家事をサボる人だなんて不安を取り除ける。


「俺はシャワーだけで済ましたけど、お湯を張っておいたからゆっくり湯船に浸かっていいよ。」

「そう?ありがとう。」


 汗だくで体は結構臭いだろうと思って、長い風呂に入りたいところだ。

 脱衣所がないので、そのまま浴室に入り、服を脱ぎ、タオル掛けの上にある棚に置く。

 浴槽から湯気が立ちのぼり、翔が私のために張っておいたお湯が見える。

 シャワーのスイッチを触れようとした時だった。

 ポタっと、水滴が地面に落ちる音がする。

 それは汗じゃなく、涙であることを気づいた。

 まためそめそ泣いちゃって。

 何で?って聞いても心当たりはない。

 もう限界だからと言えば、違う。右も左もわからない状態で、海外一人だから心細い、それもまた違う気がする。もっとこう、ぼんやりとして、苛立たしい感情がする。

 水を一気に最大まで開け、汗を洗い流す。


「今日一日は無事なはずだったのにな。」


 深く考えるのをやめにして、体を浴槽に潜る。これで全てを忘れられたらいいのだが。

 肩まで浸かる水が暖かい。

 しかし、それでも涙が収まらなかった。

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