第2話 迫ってくる事態

「お早うございます。」

「お早う、随分と早い時間ね。」

「休の日ですので。」

「だとしても、まだ七時だよ。早くね?」

「それはちょっと、寝付かなくて……」


 こんな録でもない世辞ですら機嫌がよくなる。

 ここ最近にまともな会話をしてないせいか、若干憂鬱になったかも。病院に勤める人たちみんな中国語ばっかり、話したくても相手がいない。

 そこで、このわずか一時間の面会をいつも大切にしているわけだ。


 早朝、苦い薬を飲んだり注射されたり散々苦労してやっと一息つけたところに、例の少年がユリを手にまたやってきた。

 この一週間、ほぼ欠席なしに毎日顔を出している。希美の彼氏だからと一応説明はあったが、毎日来るのはさすがに気合いを入れすぎたんじゃないかとこっちが引いちゃう。

 祝いのためだと向こうがいつも主張している。でも、そんな名目がなくても普通に姿を見せるだろうし、そう空回りするタイプだから言える。


 窓の外からぼんやりと車のエンジンの音が聞こえる。ふと道路標識を目を向け、やはり違う国だなという事実を改めて思い知った。


 どうやらここは日本南方にある島国──台湾の病院らしい。国としては微妙な立場にあるようで、詳しいことはさすがに分かるはずがないが、時事問題に備えて毎日ニュースをチェックしているからまぁまぁ知ってる感じ。

 中国語と台湾語は公用語として混在する中、英語も若い世代を中心にペラペラ話せる人多いと思われがちだが、実は第二言語に過ぎない。

 また、日本語の場合昔はメインだけど、今はかなり年配の人しか通じられないそうだ。


 さて、私は一体誰なのかってことがずっと気になっていただろう。説明ましょうか。

 わたしはもはや野村のむら磨奈まなじゃなく、なんらかのトラブルによって今は陳希美チェンシメイという台湾人としてピンピンしている。

 壁を殴ったらビリビリ痛むし、日付けが変わるにつれ夢の世界である可能性もどんどん減っていく。


 十六歳に逆戻りしたことで少々違和感はあるものの、一年の歳はそれほど大きな変化をもたらせない。敢えて言うなら、胸のサイズは元の体よりも小さくなったくらい。ただそれも年齢のせいじゃないと思うけど。

 魅力を感じられないほどぺちゃんこなスタイルでは、これから先モテるかどうかが思いやられる。

 話がそれた。

 とにかく、私はこうして生まれ変わった。

 

「多分不味いでしょうが、飯はちゃんと食べないと。」


 私の止まる手を見て、男は説得するのに必死だった。


「子供扱いすんな、このストーカー。」

「誤解しないでいただきたい、俺はそんな者では滅相もございません。」

「やってることほぼ同じだけど、毎日来てんじゃん。暇なの?」

「普通は普通でしょ、彼氏として。」

「日本語おかしくなってるぞ。ってか普通じゃない、絶対。」


 会話は基本日本語を使っている。

 この人の名は張威翔チァンウェイシャン、希美のクラスメイトにして、何故か日本語が出きる人である。一々覚えるの面倒だから、知ってる発音からショウと略称した。

 ちなみに、私の名前も都合で希美ノゾミにシンプル化されている。いきなり呼び捨てにされていたわけだが、事情が事情なので、とりあえず元の彼女を指すときは希美シメイを使う。


「ねぇ、一つ気になることがあるんだけど。聞いても?」

「どうぞ。」


 目の下に腫れがぼんやりと視認できる。そこが気に掛かった。


「自分の彼女じゃないことを知って、実は裏で泣いてたり?」


 トマトを口に運びながら、わざとらしい口ぶりで問いかける。

 ただ酸っぱくて旨味がない。卵のほうもほとんど味がしない。病院が用意したサラダと聞いて、ある程度覚悟はしていたけれど、予測以上にまずい。もしくは、私の味覚がまともに機能していないだけかもしれない。

 しばらく食べ物の棚おろしをやっておいて、そろそろ返事がくるかなと顔を上げる。


「別に泣いてたり……」

「あっそ、ならもう聞かない。いっとくけど、私はあの子の代わりになるつもりはないよ。隔てなく接してくれなんて無茶なことを望んでいないし、優しくして欲しいわけでもないし。」


 おかしい。ダークムードのせいか、早口になった上に挑発的な言い方までした。

 そこは触れてはいかない部分なのに、分かっているつもりなのに。


「ごめん、言いすぎだ。色々出来事がありすぎて少し取り乱したようで。」

「いえ、全然大丈夫です。ご飯食べてゆっくり休んでください。これからのことは、これから考えましょう。どうしても暇ならば……」


 差し出した手には、一枚のカードが乗っている。

 私は一瞬迷ってそれを受け取った。


「これは?」

「文字でも絵でも、どんな形でも構いませんので、最低限の個人情報を教えていただけませんか。もちろん言える範囲で。」

「どうして?」

「君のことが分からない、と言うより知りたいです。」

「でもわざわざ筆談しなくでも、聞けば教えるのに。手で書くの面倒だし。」

「いや、どうでしょう。」

「分かったよもう。着替えるから用が済んだら早く出てっけ。」


 もやもやと何かが胸に引っ掛かるものを感じ、また口実を作って感情から逃げようとした。しかし、そこまで言ってもあまり効果がなかったようで、翔は素直に帰ろうとするどころか、かえって椅子にどっしりと座り直した。


「そうだ。明日、君のお母さん、仕事が終わった後なら来られるそうです。説明役は俺に任せて、最後まで黙っていてくれると助かりますが。」

「お母さんって、前に見せた写真の?」

「あぁ、そうです。」


 あの人が、確かに母と言われるとしっくりくるけど、物語によく出てくるちょう若いママって、現実ではそうそういないよね。


「いいけど。」

「あとは、お父さん……あっ、こっちのお父さんですね。」

「私、いまのお父さん?」

「そう。あの、申し上げにくいですが、その、お父様が先月なくなりまして……」

「待て待て待て!なんでそんな大事なこと先に言わないのよ。ぜんっぜん話を聞いてねぇじゃん。」

「前回はとても落ち着いて話せるような状況ではありませんし、十分に説明する時間も足りていませんでしたので、なんと言うか……」

「だからこそ早めに言ったほうが対策を練る余裕もできたのに。」


 人が死んだぞ。自分も一回死んだとは言え実感がないからあれはノーカンとしよ。

 今悩むべきは、お母さんに合う時だ。どんな顔すればいいのか、全く見当がつかない。


 幸せな環境で育てられた希美って実は一人っ子だった。祖父母はどちらも既に他界しており、だから家族は両親だけ。

 つまり、父親が亡くなった時点でひとり親家庭となり、母と二人きりで家計を営むというシリアスな課題に直面せざるを得なかった。


 見上げると、翔はそっぽ向いて口をすぼめている。

 手を繋ぎたい時に限って『俺は寒くない』とか、そういうケアレス彼氏をしている光景が自然に浮かんでくる。はっきり言う、冷たいツンデレキャラはタイプじゃないし。


「今度はなんだ?」

「……」

「言わないとわからないでしょ。」

「言わなければダメですかね。」

「ダメよ。笑ったりしないからくまなく言っていいよ。」


 容赦なく催促する私に、いよいよ覚悟を決めて翔はゆっくりと言葉を紡ぐ。


「君はやっぱり希美シメイと違う雰囲気出てる。それに、初対面な人なのに敬語を使わないことにちょっとびっくりもしました。みんなそうなんですか?」

「それは……使ったほうがいいと思うよ。」


 なぜだろう。知り合いでもないくせに、発する言葉が勝手にタメ口となった。もしかすると、あの人シメイの影響かもしれない。今さら言い方を変えようともわざと距離をおいていると誤解されそう。

 恋人が急に中身を入れ替わったんだ。どんだけいちゃついていたカップルでさえ冷めてしまうほどの激変だ。いくら平然な振りをして、心の中には動揺しているはず。あまり刺激しない方向に話を進めよう。

 そういえば、彼女の魂は今どこにいる?消えた?ただ眠っただけ?とても気になるけど、今まで考えないようにしていた。


「ねぇ、絶対なんかあったでしょ?」

「絶対って、なにか?」

「とぼけようとしないで。もちろん希美シメイのことだよ、他に誰がいるの?」

「んっ……でもそんなに詳しいわけでもない。」

「気になる。」


 あまりにも単刀直入な問いかけに翔は渋い顔で苦笑いする。


「そんなに知りたいなら、教えます。亡くなったはずです。あなたは約一か月ほど昏睡状態にありました。」


 その回答は概ねに想定の内だったので、なるほどと納得した気持ちもあれば、ほっとした気持ちもある。一か月ほど昏睡状態だなんて相当長い時間だと思う。

 翔は何かを思案するように天井を見上げ、話を続ける。


「あなたは交通事故に遭い、その場で死亡が確認されました。明確な外傷は見つかっておりませんが、頭をぶつかったことで呼吸停止し、心臓も確実に止まりましたということです。」

「ちょっと、どうしてそれを分かったんだ?」


 いま、どっちの話してる?


「どうしてって?知らされたからしか言えません。別に直接目撃したわけでもないです。」

「おかしい。関西にいたんだ。トラックにはねられて即死って、地元ニュースくらいしか出ないはず。」

「えっ、トラックにはねられたと?」

「先自分言ったじゃん。」

「違います。あれは自動車の事故です。」

「え?」

「そうか、その時でしたか。だから救急車の中でいきなり脈が戻ったわけだ。何らかの憑依状態、もしくは前世の記憶が……」

「いや、さすがにそれはないでしょ。」

「どうかな、断じてそんなことはないって俺的には言い切れないと思うんですけど。」

「SF小説じゃないし。いくらなんても考えすぎ。」


 こっちにも似たような事故が発生しただけだ。

 たまたま少女が死んで、そこでたまたま、私という意志がその体を支配した。こう解釈すれば概ねに合点がつく。

 これはただ事実をつなぎ合わせただけで、経緯を説明したわけではないけれど、情報の整理にはできる。

 つまり、私は死者の体を乗っ取るよそ者だ。こんな複雑な事態に巻き込まれるより、静かに死ぬほうがましだな。合掌してわびしよっか。


「よく分からないが、なんかワルイ。」

「彼女はもうこの世にいない覚悟ぐらい出来ています。あなたから謝る必要はありませんよ。」


 と、優しく私の肩を叩く翔だった。不思議なことに、こういう軽い接触は嫌じゃない。


「お父さんはやっぱりこの事故で死んだ?」

「はい。葬式のほうも先週終わりました。」


 名前も知らない家族がいきなり増え、そしていきなり失った。正確に言うと、ここに来る前に世に去っていた。事実を告げられ、鬱と悲しみが波のように押し寄せてきた。この飲み込まれそうになる気持ちもまたあの人の感情の一部なのだろうか。


「一応聞いておきます。体のどこかで痛みは?後遺症に残ったら大変なことになります。」

「あったとしても先生じゃないお前に何ができるの?気持ちはありがたいが。」

「できることをやってみます。君が中国語を話せるようになるまで頑張るつもりです。」

「なにそれアピール?」

「せめて優しい気配りと言っていただけると嬉しいが。」

「言わないよ。でもそっか、頑張らないとね。でもさ、どれだけ勉強すればいいんだろう?」

「高校の授業を理解できるようになるまで、かな。」

「あぁ、ハードルが高い……高過ぎるうぅぅ……考えるだけて頭痛が……うぅぅ……」

「可愛い子ぶってれば誤魔化せると思わないでください。」


 翔の日本語は上手いほうだと思う。それも、日本で生まれ育ったかのように上手い。

 実は日本出身なのか?

 疑問を投げ掛けたところで、あやふやな返答で茶化されそうで断念した。裏にきっと何があるだろうけど、今は聞くべきではない。それはそれとして、なかよくするように先ずはその畏まった話し方だ。


「やっぱ敬語やめない?私たち同年だし。」


 本当は私が学年一つ上だけど、あえて言わなかった。


「いいですか?さすがに失礼では?」

「ないない、そっちが一方的に気を遣いっぱなしじゃないか。タメ口でいいよ。」

「おぉ……分かった。」

「ん、これでよし。」


 軽い雑談だけで済むつもりだったが、いつの間にか話が長くなり、もう面会の終了時間が迫っていた。思えば、意外と楽しい一時間だった。


「看護師が来る時間だそうです。邪魔にならないよう、先に失礼するけど。」


 そろそろ切り上げようと思うと、看護師の足音が耳に入った。同じ音を聞き取ったようで翔も腰を上げて言った。


「たしか、あなたの携帯は今日中に直る予定だ。修理が終わる次第持ってくる。最短でも明日まで待たなければならないけど。」

「マジ?やった!」

「こら、暴れ過ぎちゃうと落ちるぞ。では、俺はこれで。」


 言葉を残して、翔は病室を離れた。

 躍りだしそうな気分を押さえつつ、手を挙げて見送りする。


 久しぶりにスマホをいじることができるのだ。興奮しないはずがない。

 と、パスワードの存在を頭から抜けたんだ。

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