第1話 異世界ではないみたい

 気づけば、私はベッドに横たわっていた。

 全身を駆け巡る痛みが……ないな。知らんけど麻酔が効いてるのか。

 さっきまで真っ黒な世界が少しずつながらも色を取り戻している。

 四角い灰色の天井、羊羹かチョコレートか、よく見ると将棋盤にも似ている。

 花の香りと空気に漂うカビの匂いが、口に残った血の味と混じり合い、呼吸するたびに肺に染み込む。嫌なはずなのに、どこか癖があって不思議と心が落ち着く。


 お腹がすいた。これが命が続いている証拠だ。

 私は生きている。なら、ここは病院であるはず。

 目に差し込む光が眩しくて、上半身どころか手も足も痺れで動かせず、とうぜん光線を遮ることも難しいわけで、今は瞬きするだけ精一杯。

 仕方ない、体が慣れるまでおとなしく待とう。


「————」


 知らない言葉が右耳に届いた。すぐ隣にいる。

 渋い声に至近距離で囁かれ、くすぐったくて体がゾクッとする。

 おそらくはお医者さんや看護師のどちらかと、まぁ後者である可能性が高いだろう。大声で話さないのはこちらに気を遣っていると思う。


 この人は男性だ。

 ジェンダー平等が唱われる今のところではあり得る。むしろ、逆に男性の看護師が激増しているという一説も存在する。

 変わったのは発音だ。響きからも噛みからも明らかに日本語ではなかったな。


 ふと考え込む。

 本当に異世界だったら、別に変じゃない、か。

 ゲーム世界やファンタジー世界では、異なるランゲージシステムが出てくるなんて王道すぎる、のだが、今はまだ早い。手持ちの情報では、とても『異世界』とは言えない現状なんだ。


 たとえ話だけど、私は今どこかの海外で、もしくは地球の裏で暗躍する地下組織にいる。気を失ったまま知らないとこに運ばれ、臓器も取り出され、フランケンシュタインのような化け物に……分かったぞ!争いが盛んに見られる国でこっそり行う人体実験……

 んなはずないか、映画の見すぎだ。緊張のあまり、気が気ではなかったみたいだ。


「————!」


 再び声が響く。喋るテンションがわずかに上がった、っていうか話に熱がこもっていた気がする。


 うわっ、近いって……

 両肩を掴まれ、今度は正面からはっきりと顔が見える形になった。

 男は、怪訝そうに目を瞪って私を上から下へ見渡す。

 顔立ちは地味で、年齢は十代後半くらいかな。いや、ベースは悪くない。問題はそれ以外にある。

 どこか疲れ果てた、冴えない顔。何日かまともな食事をとってないように、かなり憔悴している。

 そして、若さが勿体ないぐらい手入れを怠った髪型も含め、めちゃくちゃというか、一言でまとめると惨めなあり様だ。

 『大丈夫か?』と、声をかけたくなるほどひどい。

 もちろん親父じゃない、この年なら病院の人である可能性も薄い、となると広なの?んん、あいつは決して身だしなみを疎かにするタイプではない。そもそも見た目だけでも判断できる。


「————、————?」


 また何か話した。分からない。英語とまた違う響きだ。でも、確かに聞き覚えのあるような、どっかで……そう、三ノ宮駅のアナウンスで時折聞くあれだ。思い出さん。

 男は今にも泣かんばかりに顔を俯け、ぎゅっとシートにしがみついている。まるでお袋に離れたくない子供のようだった。

 うぐっ!?

 一瞬、頬に湿った感触があった。

 さすがに何度も経験してきたとは言えないが、付き合い最初のごろ、彼氏とハグだのキスだの、男女のそういうことを一度や二度した覚えがある。


「ぐぬぬっ……」


 よくもそんなことを……

 込みあがってきた怒りが甚だしくてつい唸り声を漏らした。

 頬にチューされるなんて、勘弁してくれ。

 どれだけイケメンの王子様であれ、失恋したばかりの女がこんなことで喜ぶわけがない。言わずとも彼はイケメン王子でもないよその他人だ。

 いやぁ鳥肌立っちゃう。こんなピンチな時に限って体がだるい。不運にもほどがある。


 気が済んだだろうか、やがて男は部屋を出ていった。


「はぁ?なにあれ?悪戯?セクハラ?」


 ぶつぶつと愚痴が漏れる。

 チーク辺りにわずか熱が残り、体温も上がっている。全然ドキドキしないんだけど別の意味で心がざわめいた。

 幸い、のどは問題なさそうだし、体中に広がっていた痺れも次第に消えていく。これだけならまだ良かったのに、現実はいつもそううまくならないものだ。


 でも、そっか。

 ちゃんと生きているわ。


 すべてを取り戻すチャンスだ。失ったものも、捨てたものもすべて取り返してみせる。神様ありがとう!セクハラはごめんだけど感謝!

 ガッツポーズしたいが、下手に動くとめまいが激しくなりそうなのでしばらく我慢した。

 部屋に沈黙が落ちる。

 静まり返った空気は息苦しい。

 ここから先は長い。まずは、生きていることを素直に喜べと自分に言い聞かせてみた。


 ***


 それから三日経った。

 あの少年は一体何を話しているのか、今まで手かがりがずっとなかったけど、テーブルに置いてある書類を目に通したら、すべて漢字で出来ていることだけ判明した。まだ確証がないが恐らく中国語だ。


 読める単語はいくつあった。でも残念ながら解読まではいかなかった。医療関連の文字ばかり、謎解きクイズよりよっぽど難解ですぐお手上げになってしまった。

 今は半身を起こして水を飲んでいる。見せてもらったエックス線写真によると、さほど重症ではないらしいが、念のため自分で摂食することはまだ控えた方がいいって言われた、多分。


 それにしても暇だ。

 携帯がない。

 自由に動けない。

 話してくれた言葉の内容すら分からない。

 だから退屈している。やることがないんだ。

 それどころか、頭ばかり使っているせいで糖分が足りなくなってきた。砂糖たっぷりのコーヒー飲みたい、缶で構わないから欲しい……


 入り口にガラッと音が、はっと意識を戻させる。

 その発生源に視線を向けると、控えめに手を振っている学生服姿の少年がドアの隙間から覗き込んだ。

 柔らかな目つきには、前と違って活気に満ちている。つい先日までは一睡もできなかったようなクマが付いたんだけど、嘘のようにあっさりと消えた。


「————」


 相変わらず聞き取りづらい彼の発言に、できるだけ笑顔で応じた。

 おそらく『こんにちは』に近い挨拶なんだろうとなんとなく分かっているので、とにかく愛想よく接しておけばいいだろう。気に障ったら怖いし。だって、何をされるかがわからない。


 軽く会釈し、病床の隣に座り、携帯を見る振りをしながらこっちへチラチラ見て、結局会話を諦めて帰る。同じ流れが、昨日も一昨日も続いていた。

 正直怖い。最初のように襲って来なかったのは気まぐれだけかもしれない。


 このままだと埒が明かないって理屈は百も承知。

 そろそろ、一歩踏み出そう。立ちはだかる壁を破るには、それなりの武器が必要なんだ。大丈夫、ちゃんと持ってる。

 そう、英語で聞くんだ。ビビるんじゃないよ磨奈!そうくるなきゃ今まで何のために勉強してきた。


「えぐっ...Excuse me.」


 ——やばっ!後先考えず突っ走った!それに噛んだ!


「Go on.」


 男は、突然の英語にきょとんとしたが、すぐ気を取り直して返事をくれた。


 ——とりあえず通じた。よし、じっくり会話を進めよう。


「What is this place.」

「Hospital.」

「I see. Then who are you?」

「......」


 ——なんだその間は?やっぱり私の英語がおかしいかしら?でもここで引いちゃうとな......再び話しかける勇気を失いそう。


「What's the matter?」

「その発音、もしかして日本人なんですか?」


 ——この人日本語できる?


 絶句した。

 だって、いや、えっ?

 結局のところ日本かい!

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