第9話 ロゼの自宅にて 2
どうにかこうにかシャワーを浴び終えたものの、かえって疲労が蓄積したような気がする。
シャワーを浴びている間に気づいたが、膝に残っていた腫れや赤みはすっかり引いており、異世界の薬の凄さを改めて実感する。夜魔に殺されかけたり、寿命が縮むような空中移動をしたり、転移装置が即日使えないなど、まぁまぁの心労体験はしたものの、これだけは確実にいい思い出として残りそうだ。
ちなみに優一が想像したとおり、体を拭く必要はなかった。あの小さい二匹の生き物が息を吹くような仕草をすると、シャワー室も濡れた自身の体も瞬く間に乾いた。不思議な力を持つ、不思議な生き物だ。
二匹の生き物は優一の背後からすいっと飛び出していき、ロゼの部屋に入っていった。ソファに腰掛けているロゼの姿が見える。二匹の生き物は空中でじゃれ合い、クスクスと笑い、ロゼの周りを自由に飛び交う。ロゼはそんな二匹を頬杖をつきながら眺めている。
優一はなんだか邪魔するようで悪いなと思いつつ、シャワーを借りたことへの礼は伝えなければとロゼのもとに向かった。優一に気づいたロゼが視線を向けてくる。
「シャワー、ありがとうございました。助かりました」
「あなたお酒は?」
「は?」
「お酒」
「……付き合い程度には呑めますけど」
ロゼは立ち上がると、一度一階に下りていった。さほど待たず、ワインボトルとワイングラスを二人分持ち込んでくる。
「付き合って。私夜行性だから、この時間暇なの」
「はぁ」
夜行性って、夜型という意味だろうか。ロゼがボトルのコルクを抜き、グラスに赤ワインを注いでいく様子を見つめる。同じく、二匹の生き物もグラスに近づき、グラスに揺らめくワインを覗き込んでいる。
「温度は変えないで。味が変わっちゃう」
柔らかい声だった。それまでは淡々とした、感情の機微に乏しい声色だったのに。
「その生き物はなんですか?」
ロゼが差し出してくるグラスを受け取りながら優一は尋ねた。
二匹の生き物がロゼの肩に飛び乗る。
「この青い子は水の妖精、或いは化身、或いはウンディーネ、或いはニュンペー。赤い子は炎の妖精、或いは化身、或いはサラマンダー、或いはアグニ。世界によって呼び方と姿形は異なる。形や名前に縛りはない。好きに認識して、好きに呼べばいい」
「……なるほど」
やはりそういう固定概念を持つのは人間だけなのかもしれない。
「座れば?」
ロゼはソファの片側に座るよう視線を落とした。優一がソファに腰掛けると、ロゼが一人分距離を空けて隣に座り込む。
改めて時間ができると、なんだか気まずくて優一はグラスを傾ける。ワインなんて久しく呑んでいなかったが、質がいいものなのか呑み慣れない優一の舌でも美味しいと感じた。……というかこの世界にもワインはあるのか。
ロゼから何か会話のきっかけがあるわけもなく、沈黙にも耐え切れなくなってきた優一は、思い切ってそれまで疑問に思っていたことを聞いてみることにした。
「あの、渡りを保護するのはエージェントの義務、なんですよね?」
「そうだけど」
「渡りの保護をするだけが、エージェントの仕事ですか?」
「たくさんある仕事のうちの一つ。必要であればなんでもする」
「なんでも……連れていってもらったビルの中にいた人たちも、皆さんエージェントなんですか?」
「そうであるのもいれば、そうでないのもいる。全員が全員、エージェントになれるような素質があるわけじゃない」
「ロゼさんのように強くないといけないってことですか?」
「強さはあくまで基準。ここに役立つ能力があれば、それに特化した仕事を探せばいい」
「……なんか派遣会社みたいだな」
異世界なのだからもっとルール無用の世界を想像していたが、どうやらここではそうでもないらしい。
「オルニスさんからも聞きましたけど、転送装置から元の世界に帰れるんですよね? 何か特別なこととかするんですか?」
「何も。ただそこに立ってるだけで終わる。向こうに無事に還ったかどうかはエージェント側ではわからないから。少し座標がズレるって話は聞くけど、失敗したって話は聞かない」
その座標がズレるという部分においては多少疑問が残るものの、それでもちゃんと帰れるのなら安心もできる。
「心配?」
ロゼが不意に尋ねてきた。
「ええ、まぁ」
優一はグラスの中のワインに視線を落とす。
こんな風に向こう側の気配を感じるものがあると、安堵と共に恋しさが襲ってくる。
「向こうの仕事のこととか、冷蔵庫の中身のこととか、いろいろ考えてしまいますね。一人暮らしなので、冷蔵庫の中身なんて大したもの入ってないんですけど。卵とか、牛乳とか、賞味期限が気になるのがいくつか。帰れなかったら腐るだろうなぁと」
「帰れない心配じゃなくて?」
「まぁ、その時はその時かなって思います。帰れないことに何か憤りを感じたりしても、帰れないことに変わりはないですから。それに、私は他に家族がいないので、私がいなくなって悲しむような人はいないんです。仕事の同僚や部下たちとも一般的な付き合いしかないですし。私の仕事は誰かが代われるので、いざというときの引き継ぎも残してますから、多分困らないと思います。野良猫のほうがよっぽど心配されるんじゃないですかね」
「ノラネコ?」
「住んでるマンションの裏に、体がこんな大きな茶トラの猫がいるんですよ。あの辺りのボスなんですけどね。かわいこぶると人間が餌くれるってわかってるんで、夜に帰ると狙ったように裏のほうからやってくるんです。多分他のところでもそんな風に餌貰ってるから、あんな体が大きくて」
そこまで言って、優一はハッとなった。調子に乗って自分ばかりが話し続けている。
ソファの肘掛けにもたれながら、ロゼが優一の話を聞いている。ロゼの表情に動きがないので、彼女が今どんな気持ちで自分の話を聞いているのかわからない。
「すみません。つい私ばかりベラベラと」
「続けて」
「え」
「話すの面倒だから続けて。聞いてるほうが楽だから」
「あ……はい」
なんとも彼女らしい理由だ。ロゼの肩に乗っていたはずの二匹の妖精(ということにした)はいつの間にか消えていた。
優一は話せる限りのことを話した。彼女が相槌を打ちやすいように、少しでも話題になりそうなことを話し続ける。その内にグラスの中身は減り、ボトルの中身も少なくなった。
話しているうちに、優一はもしかして、ロゼが自分が疲れた様子を見せたことを気にかけてくれたのかもしれないと思った。そうでなかったら、わざわざ一階までワインを取りに向かうなんて面倒なことはしなかったはずだから。
オルニスがロゼのことを、面倒見がいい人だと言っていたことを思い出した。不器用に優しい人なのだろう。優一がそう思いたいだけかもしれないが。
「よく話す」
ロゼが不意にぼそっと零したので、優一は確かになと思った。ボトルが空になるまで優一は話し続けていた。それでもまだ話すのが苦ではない。自分でも驚きだ。
「好きだったのかもしれません。こうやって話すの。誰かにこうして話を聞いてもらう機会もなかったですし。でも、もういい時間ですね」
優一は気づけば一時間近くも話していた。シャツの胸ポケットに押し込んでいた腕時計の短針は夜の11時を指している。こちらの世界の時間が同じ時の流れをしているかはわからないが。
明日は朝一会議が入っていたはずだ。夕食をまともに食べられなかった分、朝食は向こうに帰ったらしっかりと食べたい。その為にもなるべく早い時間にここを出て、転送装置に向かわなければ。
「そろそろ休ませていただきます。キッチン、下ですか? 片付けてきましょうか」
「いい。まだ呑むから」
「まだ呑まれるんですか?」
「夜行性って言ったでしょ。この時間は眠くないの」
ロゼは優一の分のグラスと空のボトルを手に、一階へと降りていってしまった。
あれで明日の朝は起きれるのだろうか。なんだか嫌な予感がする。
優一は首を捻りつつも、慣れない酒の摂取とずっと話し続けたことでやってきている睡魔には抗えず、三階の寝室へと向かうのだった。
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