第10話 不測の事態 2

 何かが顔に滴った。それが二滴、三滴となると気のせいではない。

 優一が瞼を開けると、目前に炎と水の妖精がいた。二匹はクスクス笑うと部屋を出ていく。ぼやけた思考で見慣れない天井を眺めていた優一は、近くで聞き慣れたバイブの音を耳にした。

 体を休めていたベッドからむくりと起き上がり、額から流れる水滴を拭いながら引き続きの現実に息をつく。枕元に置いていたスマホを掴み、設定していたアラームを止める。このバイブ音を聞いて、あの二匹は起こしてくれたのかもしれない。

 ベッドを抜け出すと、体が酷く気怠い。昨日山道を全力疾走なんてしたから体の節々が悲鳴を上げている。あの二匹がいなかったらおそらくアラームで起きられなかっただろう。なんとか伸びをして、無理矢理体を起こさせる。最早歳のせいなのかもよくわからない。

 カーテンを開けると軽く埃が舞った。家主のロゼが当然掃除なんてするはずもない。視界を覆う埃を振り払い、薄っすらと朝日が差し込んでいる外を眺める。昨夜と違って、さすがにこんな朝早くから出歩く種族は少ない。

 ロゼはどうしているだろう。優一は欠伸を噛み締めながら、下の階に足を運ぶ。先に視界に入った寝室にはロゼの姿は見当たらなかった。――とすると。

「……」

 やはりそうだ。ロゼは自室のソファで眠り込んでいた。

 あれから更に追加でボトルを二本も空けたようだ。先ほど部屋を出ていった二匹が空のボトルをつついている。

 彼女は一体何時まで起きていたのやら。寝たのが数時間前であれ、優一にとってはこの人がいないと始まらない。心を鬼にして、優一はロゼの肩を揺さぶった。

「ロゼさん、起きてください。朝一で戻りたいので、そろそろ起きていただかないと」

「……んー」

 ロゼは眉間にシワを寄せ、ますますソファに体を丸めてしまった。

「ロゼさん」

 少し強めに肩を揺する。喉奥で唸ったロゼは、微かに瞼を開けて薄目がちに優一を見た。

「朝……駄目だから……」

「駄目って」

「無理……」

 そう言ってロゼは目を閉じてしまう。それでは困るのだ。外を出歩くにはロゼの付き添いが必要だとオルニスが言っていたはず。

 優一はもう一度強めにロゼを起こした。

「ロゼさん、少しの間だけでいいんです。会社に付き添ってくれるだけでいいですから」

「んんっ」

 ロゼは自身を揺する優一の手をグイッと押し上げた。

「いてててっ」

「自分一人で行ってきて……」

 優一の手を離すと、ロゼは深い眠りについてしまった。

「一人でって……」

 契約上駄目なんじゃなかったのか。押し上げられた手を痛そうに擦り、これ以上は全く起きる様子のないロゼに優一はすっかり呆れてしまった。

 とりあえず着替えるだけ着替え、優一はしばらくどうしたものかと廊下をうろついた。あの調子ではロゼはおそらくあと数時間は目を覚まさないだろう。夜行性と言っていたし、もしかしたら夕方まで起きてこないかもしれない。

 あらゆることを天秤にかけ、一刻一刻と過ぎていく時に優一はついに自ら決断を下した。――行くか、一人で。

 幸い、まだ朝も早く、今出れば交通量の少ない中であの会社にも行けるだろう。周囲を観察しながら歩いていたから道順も覚えている。

 優一は意を決して荷物を掴み、家を出ることにした。玄関先まであの二匹がついてきてくれた。二匹は家の外には出られないようで、扉の手前でウロウロと飛び交っている。

「もう会うことはないだろうけど、起こしてくれて助かったよ。ありがとう」

 こちらの言葉がどこまで通じるかはわからないが、お礼だけは述べておきたい。

 不安げにも見えた二匹を前に扉をそっと閉じ、優一は辺りを見渡す。パッと見、街道にいるのは清掃をしている自動移動式の四角い機械だけだ。

(……よし、この隙に)

 優一は昨日に引き続き、駆け足気味にエレフセリアの街を歩き出した。



 開店準備をしているいくつかの店の前を通り抜ける。時折住民同士の会話が聞こえてくるが、昨日ははっきりと聞こえてきたはずの会話が全く聞き取れなくなっていた。

 もしかしたらロゼが近くにいたから聞き取れていただけなのかもしれない。そう言えばロゼは首にある何かの装置をいじることで、優一との会話を可能にしていたように思う。あれが翻訳の役割をしていたのだろう。

 まずい、もしこんな状態で誰かとぶつかったり話しかけられたりでもしたら。

 と、トントンッと肩を叩かれ、優一は驚いて振り返った。そこには昨日ロゼに話しかけてきた鳥人の女性がいた。開店準備中だったようだ。

 鳥人の女性が話しかけてきた。きっとロゼは一緒じゃないのか、ここで何をしているのかと言ったことを、雰囲気から話しているのだろうことが感じ取れる。

 だがあくまで雰囲気で、もっと何か別のことを言っているような気もしてくる。優一は困り果てた末に、「すみません……! ごめんなさい!」ととにかく謝り倒して逃げてしまった。



「……? え」

 早朝から誰かが駆け込んできた、と思ったらそれが優一だったので、オルニスが思わず声を上げた。

「え、ちょっ、え?」

「はぁっ、はぁっ……」

 息を切らせて膝に手をつく優一に、オルニスは慌てて駆け込んだ。

「なんっ、え、一人で来たんですか? ロゼさんは?」

「あ、どうもっ、おはようございます。よかった、言葉が通じる。あー、しんどいっ。ロゼさんは、ご自宅で寝息を立ててますね」

 なんとか息を整え、体を起こす優一にオルニスは「駄目ですよ!」と声を荒げた。

「ロゼさんなしに一人で来るなんて! どうするんですかクシャミをしたドラゴンに火を吐かれたり、寝ぼけたケンタウロスの群れに轢かれたりしたら! ここじゃあそんなの頻繁に起きるんですから!」

「っ、す、すみません……」

 軽く言われたが、普通の人間である優一が遭遇すればほぼ即死であること間違いない。これが体が頑丈な造りをしている他の種族であれば、軽傷で済むのかもしれないが。

「向こうの時間との兼ね合いで、この時間のほうがいいと思ったので……それにロゼさん、全く起きる気配がなくて。一人で行ってくれとも言われたので、行けるものと……」

「もう来てしまったのは仕方ないとして、本来であればロゼさんのエージェント契約における重大な契約違反になります。今回はあなたが無事だったからよかったものの、ロゼさんにはあとで厳しく言っておきます」

 これはさすがに早まってしまったか。自分が帰ったあとにロゼが厳重注意を受けるのかと思うとさすがに申し訳ない。

「それと、時間のことを気にされていたみたいですが、こちらから元の世界にご帰還いただく際は、元の世界で飛ばされてきた時間と場所にご帰還いただきますから、どの時間にいらしていただいても変わらないんですよ」

「あ、そうだったんですか」

 そうか、それでロゼはあんなにのんびりしていたのか。……いや、絶対違うな。

「ロゼさん、それもあなたにお伝えしなかったんですね。説明もエージェントの仕事なのに」

「いや、私も聞けばよかったとは思いますし」

「それでもです。今日という今日はちゃんと言わないと」

 ため息をつくオルニスはすっかり頭を抱えてしまった。

「……あの、ロゼさんって、どうしてあんなに面倒臭がりと言うか、あまり気乗りがしない感じと言うか」

「どこまで本人が意識してああいう態度をしているかはわからないんですけど、ロゼさんの一族って、他の種族の中でも長寿種族に入るんです。最低でも500年から1200年は生きると言われていて、その長い命を持て余しているんだと思うんですよね」

「500年から1200年……スケールが違いすぎるな」

「ロゼさん以外のご家族にも何人か会ったことがありますけど、それでもロゼさんの面倒臭がりは他のご家族の比じゃないですけどね」

 何故ロゼだけがああなのかは、長らく仕事をしているオルニスにもわからないようだ。それらを気にしたところで帰るだけの自分には、もう何の関係もないことだけれど。

 そうだ、と優一は肝心なことを聞き忘れていることに気づいた。

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