第8話 ロゼの自宅にて 1
こんな家を海外ドラマで見たことあるな、と優一はその家を見て思った。
何のドラマだったかはとんと思い出せないが、イギリスかその辺りで登場人物がこんな家に住んでいた気がする。
こういう家を確か、向こうではアパートメントと言うのだったか。もうちょっとちゃんと観ておくんだったなと、こんなところで少し後悔する。
先に中に入ったはずのロゼが閉じられた扉を開ける。何を呆けているのだと、そう言いたげだ。
「早く入って」
「あ……その、靴が……」
優一は自身の足元に視線を落とす。山の中を逃げ回ったから靴は泥だらけだ。こういう家は確か靴のままで室内まで入るはずだ。既に土は乾いているとは言え、このまま中に入れば汚してしまうのは確実だ。女性の家を汚したくはない。
ロゼもそれを見やると、すっかり見慣れたため息を吐き、「お願い」と声小さく呟いた。
何を、そう口を開きかけたとき、突然優一の目の前に小さくて青い、半透明の水で形作られた生き物が現れた。それは優一の周りを一周し、クスクスと笑うとその場で宙返りをする。
生き物の体から水滴のようなものが滴り落ち、優一の革靴をいくつか弾いた。すると水滴は見る間に優一の革靴を覆い尽くし、なくなる頃には元の綺麗な状態になる。
「ええぇっ」
こんな一瞬で。優一は顔を上げたが、既に小さい生き物はいなくなっていた。
ロゼが息をついて再び中に入っていく。優一は呆気に取られながらもあとに続いた。
中に入ってすぐ、廊下の先の階段が目に入る。階段奥はリビングダイニングのようだ。
手前右側にある部屋もリビングか、テーブルと椅子が置かれている。ただし頻繁には使われていないのだろう、生活感が薄く、テーブルクロスのようなものも敷かれてはいない。
一階にロゼの気配はない。どうやら二階に上がったようだ。
軋む階段を上り、優一も二階に向かう。目の前はロゼの部屋だろうか、彼女が着ていたコートがソファに脱ぎ捨てられている。
隣は寝室か、後ろを振り返るとまだ部屋がある。更に視線を向けると上に続く階段があった。三階があるのか。一人暮らしにしては多い部屋数だ。これではリビングの一つくらい持て余してしまうだろう。
「あなたの部屋は上」
部屋から出てきたロゼが優一を通り過ぎ、上に続く階段に姿が消えていく。
コートを脱ぐと華奢だと思っていたロゼの体が尚更細く見えた。これで夜魔を投げ飛ばしたり翼を引きちぎったり、自分をここまで飛んで運んできたのかと思うとやはり人ではないのだなと思う。
そう言えば彼女はどういう種族に属するのだろう。タイミングを逃してしまって聞きづらい。
ロゼのあとを追い、三階へと向かう。また部屋がある。一人掛けのソファとテーブルが気持ち程度に置かれていた。
下と同じ間取りで、隣は寝室だ。こちらもベッドとカーテンがつけられただけの質素な部屋だった。ただしこの階に奥に部屋はない。
「シャワー室はこの下。階段のところだから」
ロゼはそれだけ言うと下に戻ってしまった。あとは自由にしろと言うことか。
取り残された優一はどうしたものかと佇んだ。程なくして下から水の流れる音が聞こえてきた。ロゼがシャワー室に入ったのだろう。
先ほど下で見つけた奥の部屋がそこだったに違いない。優一はいくらか瞬きをすると、個室のほうに足を運び、ソファに腰掛けた。しばらくぼんやりする。
(……疲れたな)
一人になった途端、いろんなことが頭の中を駆け巡り始めた。転送装置は本当に直るのか、直らなかった場合の向こうでの仕事はどうなるのか。冷蔵庫の中も賞味期限が近いものがあるし、そうだ炊飯器のタイマーもセットしたままだ。
こんなところにいるのに、考えるのは元の世界に戻ったときに突きつけられる現実ばかりだ。
「はー……」
心底深いため息が出て、優一はとにかくまずは少し気を抜くかと上着を脱ぎ、ネクタイを引き抜いた。窮屈そうに第一ボタンと袖口のボタンを外し、ほぅと一息つく。
ふと今何時なのか気になって、腕時計を確認する。10時過ぎか……確かライト代わりに使ったスマホの時計が20時を過ぎた頃だったはず。まだ二時間ほどしか経っていない。
――二時間でいろいろ起きすぎだろ。
優一はこめかみを押さえて項垂れた。こんなの生涯忘れないだろうなと息を吐く。
しかしこんなところでも寝床につけるのはありがたい。ロゼ以外のエージェントに保護されていたら、ここまで人の暮らしに近い寝床にはならなかったかもしれない。もちろん人に近しかったとしても、こんな人らしい生活様式であったかどうかは不明だけれど。
ボロボロの鞄を漁り、奥底にかろうじて無事だった歯磨きセットを見つけ取り出す。結局あのあとまともに夜魔のステーキ……ニュクス・テラスのステーキは食べられなかった。食べたのはほんの二口程度だが、それでもこの毎日のルーティンだけは欠かしたくない。
エチケットで歯磨きセットを常備していてよかった。歯医者は通い出すとあとが長い。あまり世話にはなりたくないものだ。
と、何か気配を感じて優一は振り返った。寝巻き姿にガウンを着たロゼが出入り口のところに寄り掛かっていた。
「空いたけど」
ロゼは背後を指して言う。
「あ……早いですね」
「乾かすのは一瞬だから。お願いすればいい」
「お願い?」
「そう。行けばわかる」
「はぁ……」
なんだか要領を得ないまま、つまりはタオルがいらないってことか……?と首を捻りつつ、優一は歯磨きセットを手に部屋を出た。
下に向かっていく優一の姿を、ロゼがなんとも言い難い表情で見送っていた。
シャワー室と思しき扉を開け、中に入る。入って奥にガラスで区切られたスペースがあり、上にはシャワーヘッドが設置されている。
確かに先ほどまでロゼが入っていたとは思えないほど、シャワー室には水気がない。……と言うか水を出すレバーらしきものが見当たらない。
どうすんだこれ、と女性が使用しているシャワー室をよく見回すのも気が引けるが、こればかりはさすがにと思いいろいろ探したが、やはり見つけられない。
ロゼはお願いすればいいと言っていたが、何をどうしたらいいかもわからず「お願いって……」と途方に暮れた。
するとその声に反応したのか、先ほど優一の革靴を綺麗にしてくれた小さい水の生き物がまた姿を見せた。優一を見てクスクス笑うその生き物はシャワーヘッドをポンと叩いた。水が出る。
「あ、お願いってそういう……」
そうか、ここでは電気じゃなくて生き物の力を借りるのか。ようやく理解した優一は、だったら最初からそう言ってくれと言葉の足りないロゼにため息を止められない。
しかし、これではおそらく――。
「水だよなぁ」
シャワーから流れ出ているのは間違いなく冷たい水だ。出してくれるのはありがたいが、これでは困ってしまう。
「あー、えーっと、お湯にできたり……」
優一が尋ねると、今度は姿形の似た小さく赤い生き物がどこからともなくやってきた。水の生き物と違って体は炎でできているようだ。
炎の生き物が水の生き物の隣に並び、シャワーヘッドをポンと叩く。出てくる水から湯気が立ち昇り始めた。
試しに触れてみると温かい。……いや、どんどん熱くなってくる。というか熱い。
「今度はやり過ぎだな」
水の生き物がまたシャワーヘッドを叩いた。水に切り替わる。
「いや、だからお湯を……」
炎の生き物がシャワーヘッドを叩く。熱湯が出る。
「これじゃ熱すぎるんだ」
水の生き物がシャワーヘッドを叩く。水が出る。
「だから……」
炎の生き物がシャワーヘッドを叩く。熱湯が出る。
「あの……」
水と炎の生き物が交互にシャワーヘッドを叩き出す。当然水と熱湯が交互に出る。
「……遊ばれてんな」
二匹の生き物が空中でケタケタと笑い転げた。
このやり取りを都合七回ほど繰り返した後、満足した二匹が同時にシャワーヘッドを叩いたことで、ようやく優一は適温のシャワーを浴びることができたのだった。
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