第3話 邂逅

「いつまでかかってんだ! もう三日だぞ!」

 ロゼがそのフロアの扉を開けると、中からは怒号が聞こえてきた。思わず足を止めたロゼは、奥で列ができている受付カウンターに目を向けた。

 狼の獣人が荒々しく牙を見せながら喉奥で唸っている。それに対応しているのは感情の乏しい、澄ました顔をする女性だ。関節の一部が球体になっている。機械人形のようだ。

「大変申し訳ありません。よろしければ以前申請いただいた内容のご確認をさせてください」

「またそれかよ! 来るたびおんなじこと言うな!」

「申し訳ありません。マニュアルですので」

「ああくそっ! 話がちっとも進まねぇ!」

 頭の毛をガシガシとかきむしり、狼の獣人は苛立ちを露わにした。

「ねぇ、ベビーシッターの手配はまだ? これじゃあいつまでも旅行に行けないわ」

 更に奥では、角が二つ生えた女性が困った様子で子供を抱えていた。他にも同様に、何らかの理由で順番待ちをしている種族がたくさんいる。

 ロゼはそれらを一瞥すると、別のカウンターへと向かい、アタッシュケースを卓上へと置いた。それに気づいた鳥人男性と話し込んでいた小柄な猫の獣人女性がカウンター席へと慌てて飛び込んでくる。

「ロゼさん、早かったですね」

「今回はすぐに見つかったから」

「では依頼品を確認します」

 猫の獣人女性はアタッシュケースを開け、中にある二つの青い原石のような塊をしっかりと確認する。

「確かに、依頼品の青水晶の原石ですね。今日も即日の依頼達成ですね」

「長引かせると面倒だから」

「報酬はいつもどおり、明日手続きの明後日入金になりますけど」

「ん、平気」

「わかりました。皆さんがロゼさんみたいな方だったら助かるんですけどね」

 そう言って疲れた様子を見せる猫の獣人女性にロゼは僅かに目を細める。

「今日も残るの?」

「はい……あの状態なので……」

 向けられた視線の先には順番待ちの列。

「改善要望ずっと出してるんですけど、なかなかうまくいかないみたいで……そもそもどの世界の方々も手続きなんてやったことないんですよね……」

「手助けできたらよかったんだけど」

「いいえ、ロゼさんにはお仕事がありますから。即日で依頼達成をしていただけるだけ、十分助かってます」

「ありがとう。じゃあ帰るわね。また明日」

「待った! ガティ! その人止めて!」

「にゃい!?」

 ビクッと体を震わせた猫の獣人女性――ガティは咄嗟にロゼの腕を鷲掴んだ。

 先ほどガティと話し込んでいた鳥人男性が機械から印刷されてきた紙を切り取りロゼへと駆け込んでくる。

 そのあまりの急ぎように羽が数枚床に散らばった。

「ロゼさん!」

「嫌」

ひずみが発生しました!」

「嫌」

「『渡り』の保護をお願いします!」

「業務時間外」

「これ座標地点です! 夜魔の森なので渡りの命が危険かもしれないですから早急にお願いします!」

「そうなんだ。じゃ」

「エージェント! お仕事!」

「エージェントたくさんいるから」

「この時間は夜目が利く人じゃないと駄目なんですよ!」

「下に黒豹いたから連れてきて」

「今回歪の検知に時間がかかって、出現から時間が経ってしまってるんです! 今すぐ向かえて夜魔に対抗しうるエージェントなんてロゼさんしかいません! お願いします!」

 突き出されている座標地点の紙を恨めしい顔で見つめるロゼを、腕を掴むガティが「ロゼさん」と懇願の眼差しで見つめる。

「……めんどくさいなぁもう」



 足早にロビーを抜けてきたロゼに、同僚と話し込んでいたアエロナが気づいた。

「ロゼ? そんな急いでどうしたの?」

「時間外労働」

 そう口早に言い放ったロゼは外へと向かうとコートを翻した。

 ロゼの姿は溶けるように消え、コウモリの群れが巨大な月に向かって飛んでいく。



「はぁっ、はぁっ……!」

 心臓が痛い、息が続かない、体力がもたない……!

 足がもつれる。今にも転びそうだ。

 どうにかしてやり過ごせる手段はないか、優一は木々の隙間から飛び交ってくる得体の知れないものに、生きてきて初めて悍ましいという感情を抱いた。

 これが夢なら醒めてくれ!

 必死に願うが、これは現実だ。擦りむいた掌のヒリつきも、心臓の痛さも、何もかもが現実だ。

 頭上を赤い爪が掠める。

 上げそうになる悲鳴を堪え、身を屈めるがその瞬間についに足が言うことを聞かなくなり膝から倒れ込んだ。

 慌てて鞄を掴み防御の姿勢を取る。

 飛び交っていた生き物が優一の前に降り立った。近づいてくるそれらに向かい、優一は必死に鞄を振り回して抵抗を試みた。

 しかしそれは爪によって大きく弾き飛ばされ、離れた場所に転がった鞄には大きな爪痕が残る。

「っ、ぐ」

 声にならない呻き声が漏れた。訳のわからない場所に突然いて、訳のわからない生き物にこんな形で殺されるのか。

 こんなことってありなのか。こんな何もかも突然で、訳もわからないまま死ぬのか。

 赤い爪が間近に迫る。

 もう駄目だ――。

 ぐっと目を閉じた優一と謎の生き物の間に、それは突然やってきた。

 キィキィと甲高い声が聞こえ、無数の羽音が耳をなじる。ハッとして瞼を開けた優一が見たのは数え切れないほどのコウモリだった。

 コウモリはしばらく優一の前を通過していき、月の中で集合体となるとそれは一人の女性の姿を形作った。

 ――綺麗な人だと思った。

 ただ同時に怖いとも思う。それくらいに綺麗で美しい人だった。

「――――」

「?」

 何かを発した女性の言葉は聞き馴染みのない言語だった。優一にそれは聞き取れなかったが、あの謎の生き物には聞こえているようだ。

 細く甲高い鳴き声が女性に向けられる。

「――――」

 女性がまた何かを発した。謎の生き物が激しく抗議するように鳴き声を上げる。もう一度口を開きかけた女性に、謎の生き物は突然飛びかかり襲いかかった。

 あっ!と上げたつもりの声は声にならず、赤い爪が夜の闇を裂いた。一瞬女性が切り裂かれたように見えたが、残像だった。

 再びコウモリが飛び交い、襲いかかってきた最初の二人を覆うと、姿を見せた女性が二人の髪を引き掴み遥か遠くへと放り投げてしまった。

 その隙に背後にまた一人迫ったが、爪が突き刺さる寸前に幾度目かのコウモリへと変わりその姿は迫った一人の背後に現れた。

 女性は謎の生き物の翼を掴むと、足を背中にかけ思い切り引きちぎった。凄まじい悲鳴と繊維の引きちぎれる音に優一は身を屈ませて耳を塞いだ。

 その悲鳴が大きすぎて聞こえなかったが、自分は今間違いなく恐怖から悲鳴を上げていた。

 翼を失った謎の生き物は地面に落下し、鈍い音を立てて息絶えた。その正気を失った目が優一の視界に入り込んで、何も入っていない胃からせり上がってくるものを覚えさせる。

 月明かりに揺れる女性の瞳が妖しく光る。それを見た残った二人が顔を見合わせ何かを話し込むと、揃って森の奥へと逃げていった。

 辺りを静寂が包む。

 ……助かった、のだろうか。

 優一は恐る恐る立ち上がる。息絶えた謎の生き物を視界に入れないよう視線を逸らしながら、なんとか胃の不快感を誤魔化す為に息を呑み込む。

 月明かりを背にしていた女性が地上に降りてくる。

 こちらに近づいてくる。優一は慌てて転がっていた鞄を拾い、自身の前に盾代わりに掲げる。

 女性は一定の距離で歩みを止めると、「――――」とまた何か聞き取れない言語で口を開いた。

「あの、えぇっと……」

 とりあえず襲ってくる気配はなさそうだ。なんと答えていいかもわからない優一に、女性は一つため息を零したかと思うと、首につけているチョーカーのようなものから小さなダイヤルを弄り出した。

 軽く咳払いをした女性がもう一度口を開いた。

「私の言ってること、わかる?」

「! わ、わかります!」

 それは優一にとって、初めて安堵できた瞬間だった。

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