第35話 スピード退職

 突然だが、〝無限の猿定理〟という言葉をご存じだろうか?

 平たく言えば、猿にタイプライターを打たせ続ければ、いずれはシェイクスピアの作品が出来るという代物だ。

 確率は限りなくゼロに近い。たった二文字の英単語を作るだけでも一パーセントを切るのだから当然だ。だが、時間を無限に掛ければいつかはできる。地球さえ滅ばなければ。

 別に難しく考える必要はない。今の話は、糸井が不幸な目に遭ったことに対する前置きに過ぎないのだから。


「そんな小学生みたいな言い訳をして、恥ずかしくないのか?」

「事実です」

「お前のせいで高橋が泣いてるんだぞ」

「先輩には申し訳の無いことをしました。ですが、アレは事故です」

「もういい、今日は帰れ」

「はい、失礼します。お疲れさまでした」


 上司陣に囲まれた状態で説教をされ、最終的に早退を促される糸井。

 食い下がる素振りさえ見せず、ふてぶてしい態度を貫き通した。一皮むけたと言うべきか、それとも社会不適合者になったと言うべきか。

 今もすぐに帰らず、給湯室でコーヒーを嗜んでいる。まさに無敵の人だ。

 そこに現れる、もう一人の無敵の人。


「せんぱぁい。フツー、あんなミラクル起きます?」

「信じなくていいよ。本当に事故だ」


 ちょっかいをかけに来た後輩を適当にあしらう。別に後輩のことが嫌いになったわけではない。今回の件に限っては、信じてもらえなくても無理はないからだ。


「パソコンにこぼしたコーヒーを拭いたら、キーボードを無茶苦茶に打鍵した。それだけの話だ」

「それでエッチな動画を検索して、再生しちゃったと? どんな確率ですか?」

「天文学的な確率だろうな。俺は元々、猫の動画を見ていたんだ」


 当事者的には笑っていいのかどうか判断に悩むが、第三者的には面白い話だ。

 意図せず卑猥な動画を再生してしまったのも愉快だが、運悪くイヤホンが抜けたというのも相当愉快だ。

 喘ぎ声が職場に鳴り響き、一瞬時間が止まった。たまたま後ろにいた女性の先輩、後輩が言うところの〝デブ先輩〟が硬直していたことから、本当に時間が止まっていたのかもしれない。

 慌てて立ち上がった糸井は、足をもつれさせて派手にスッ転んだ。先輩を押し倒す形で。

 鳴り響く喘ぎ声、画面に映る卑猥な動画。その前で重なり合う男女。集まる視線。

 滑稽だが、先輩に取っては軽くトラウマだろう。

 先輩の嗚咽を背に受けつつ、会議室に連行され、上司陣による詰問が始まった。


「ま、同僚も上司も、誰一人信じちゃくれなかったさ」


 聞く耳持たずの、完全なる魔女裁判。

 即解雇とまではいかなかったが、会社での居場所と人権を剥奪される糸井。

 押し倒したことが事故だということぐらい、誰だってわかっている。

 だが、後輩に懐かれている糸井を擁護する者などいない。


「私は信じますよ?」

「なんでだよ、明らかにおかしいだろ。キーボード拭いたら運悪く『たちばっくほんばん』って打ってしまって、運悪くアップしたてで検閲前のエロ動画にヒット。誰がどう考えても嘘だろ」


 キーボードの配列的にも不自然な入力だ。

 言うまでもないが、これは桜井の占いによって生じた事故、いや、事件か?

 桜井からは「前の占いだけど、コーヒーをこぼすって結果だったよ」としか聞かされていない。明らかに悪意のある伝え方だ。


「エッチな動画はさすがに無理がありますけど、押し倒したのは百パー事故ですねぇ。絶対に事故です」

「なぜ言い切れる? お前がなんと言おうと、高橋先輩は美人でグラマーだぞ? 職場でエロ動画見るようなヤツなら、発情して襲い掛かってもおかしくない」

「カチンときましたねぇ。私の前であのデブスを褒めちぎるなんて。あれは巨乳じゃなくて、ただのデブです。美人じゃなくて、メイクで整えたブスです」


 言いがかりも甚だしい。

 単なる嫉妬だが、後輩からすれば当然の怒りだ。自分の初めてを捧げた相手が、自分の嫌いな女を持ち上げているのだから。


「第一、あんなデブはタイプじゃないでしょう? 先輩の同居人さん、スラッとした美人じゃないですか」

「待て、なんで未来さんのことを知ってんだ」

「先輩の定期見ましたから、最寄り駅ぐらい知ってんですよ。民家が少ないから、特定するのは楽でしたよ」

「そっか。ご苦労」


 本来は恐怖を感じる場面だが、今更そんなことで度肝を抜かれる糸井ではない。

 長居するのもよろしくないと思い、コーヒーを一気飲みして帰路につこうとする。


「あいや待たれい」


 話は終わっていないと、通せんぼする後輩。

 一刻も早く退社したいが、仕方なく立ち止まる。


「なんだ、通せ」

「会社どうするんです?」

「……次が見つかれば一秒でも早くやめる。見つからなかったら、無心でここで働き続ける」


 ここに未練はないが、無職になるぐらいならば続ける。大したものだ。

 ホワイト企業ならまだしも、お先真っ暗のブラック企業で居場所を失ったなら、即退職でもいいと思うのだが。


「同居人さんのヒモになりたくないからですか?」


 どこまで察しているのだろうか、この後輩は。

 ここまでくると、知らないことのほうが少ないのではないだろうか。


「そうだよ。帰るから、通してくれ」

「だったら私のアシスタントしてくださいよ。リモートワークOKですよ?」


 月給次第だが魅力的な提案だ。後輩の副業、いや、本業についてはホテルでの行為中にあらかた聞いている。糸井の知らない世界だが、話を聞く限り魅力的に思えた。

 だが、糸井は首を横に振る。思いに反して。


「お前がいくら払ってくれるのか知らんが、素人が給料に見合った仕事をできると思えない。お前のヒモになるようなもんだろ」

「いいじゃないですか。基本的に同居人さん優先でいいんですよ? 私とは、たまに会ってくれるだけでいいんです」


 健気なのか強かなのか、判断に悩むところだ。

 手放すぐらいなら、妾でもいいという豪胆さを持っている。どちらかと言えば、糸井のほうが男妾な気もするが。


「私は仕事を辞めるつもりです。先輩がアシスタントしてくれないなら、配信も辞めます」

「……どうやって生活するんだ?」

「しばらくは貯金切り崩して、そこからは知りません。体売る気にはなりませんし、死ぬしかないんじゃないですか?」


 メンヘラの常套手段、しょうもない脅し。もしそうだったら、どれほど良かっただろうか。この女は本気だ。本気で命を絶つと、糸井はそう確信している。


「生きてくれよ。俺のことなんて忘れて」

「先輩が忘れたらいいじゃないですか。男って皆そうですよね、捨てた相手のことをいつまでもダラダラと気にかけますよね」


 自分の命を人質にするとは、なんと豪胆な女性だろうか。

 並々ならぬ執着心があってこその博打だろう。


「私は先輩のことを信じてます。だから今すぐ退職させます。私もすぐ退職します」

「……お前のアシスタントになるかどう……」

「先に謝っときます。ごめんなさい」


 糸井の言葉を遮って謝罪する後輩。

 何についての謝罪なのか聞く暇もなく、後輩が甲高い叫び声を上げる。


「お、おい? おま……」

「ごめんっ!」


 人が来る気配に気を取られている糸井の局部に、体重を乗せた蹴りを叩きこむ。

 小柄な素人が放った蹴りとはいえ、全力の蹴りがクリーンヒットすれば、ダウンは免れない。不意打ちだったというのも大きい。


「おい! 何があった!」


 叫び声を聞きつけた連中が、ゾロゾロと給湯室に集う。

 涙目で床に座り込む後輩と、とっくに退社したはずなのに社内で悶絶している糸井。先ほどの一件と後輩の悲鳴を合わせれば、考えられる可能性は一つ。

 まともに口を利けない糸井の回復を待つでもなく、一方的に退職を言い渡す上司陣。最低な裁定だが、男女の揉め事は問答無用で男が不利になるのが世の常だ。

 男が子供を殺めれば、酌量の余地があろうと重罰を科される。

 だが女性の場合は、身勝手な理由であっても罪が軽くなる。平成中頃のデータによると、母親が新生児を殺しても八十三パーセントの割合で執行猶予がつくらしい。


「自己都合退職扱いとは、辛いですねぇ」

「…………」


 正式な退職は来月になるが、今後出社することがないという意味では、本日付けでクビと言っても差し支えない。


「私も自己都合って扱いですし、おあいこってことで。ね?」

「……」


 後輩も同様の処分だ。

 ショックで仕事を続けられないという意思を汲み取っての、退職処分。狂言強姦だから妥当な仕打ちに見えるだけで、実際に強姦だった場合は訴訟不可避だろう。


「しっかし、高橋のデブ、酷いですよねぇ。半死半生の先輩に対して『糸井君のこと信じてたのに』なんて、よく言えたもんですよ」

「…………」

「相当な痛みと屈辱だったでしょうに、涙一つ流さないなんてカッコいいです。惚れ直しましたよ」

「…………」

「歩きづらそうですね。身長が近ければ、肩を貸せるんですけどぉ」


 無言を貫く糸井に話しかけ続ける後輩。

 根負けしたのか、情緒が落ち着いたのか、糸井が口を開く。


「……腫れてるな、多分」

「あっちゃぁ。潰れてはないですよね?」

「当たり所が良かったのかもな」

「安心しましたよ。想像以上の悶絶具合でしたから、強くしすぎたかと」

「負けたよ。お前の愛と執着心を見誤った」


 大人しく退職するのが正解だった。渋った自分が悪い。糸井はそう考えている。


「お前のことを理解してれば、お互いにまともな退職をできただろうに。悪いな」


 クシャっと後輩の頭を撫でる。


「怒ってないんですか?」

「どうせ遅かれ早かれクビになってたさ」


 それに関しては間違いない。

 自主的な退職を強要されるだろう。陰湿な手法で。


「蹴られたことに対しては? 自分でも驚くくらい見事な一撃が入ったのに」

「アレだけ容赦なく蹴り上げといて、何を今更ビクビクしてんだ。ほら、行くぞ」

「行くってどこに……」

「……同居人様のとこだよ」


 今の糸井に先延ばし精神など存在しない。

 同様に、最良の未来に辿り着ける目算、道筋も存在しない。

 分の悪い賭けだ。期待値を知らない人間の博打を見ている気分になる。

 糸井を突き動かすのは、誠意か、それとも諦観か。

 戦略は、本音を全てさらけ出す。ただそれだけ。人はそれを、ノープランと呼ぶ。

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