第34話 折檻
時刻は二十三時前。
中々家に入る勇気が出ず、三分ほど家の前をうろうろする糸井。通報されかねないので、早く腹を決めてほしい。
「コンビニスイーツでなんとかなるかな……ならねえだろうなぁ……」
面接会場の扉を開ける時以上の緊張感に包まれながら、ゆっくりとドアを開ける。
「ただいま戻りました」
桜井が寝ている可能性もあるので、小声で帰宅報告をする糸井。
ドアの開閉音に反応したのか、声に反応したのか、それはわからないが、桜井が猛スピードで玄関まで駆けつけてくる。まるで飼い主が帰ってきた時の犬のように。
「遅い。餓死するかと思った」
「えっ、ご飯食べてないんですか?」
なんとなく予想してはいたが、まだ夕食を取っていないらしい。
糸井に胃袋を掴まれているとはいえ、大人なら少しは頑張ってほしいものだ。
「一応コンビニのスイーツ買ってきたんですけど」
「さすが。愛してる」
軽い言葉だが、それに反比例して愛は重い。相当重たい。
「それにしても、お酒臭いね」
「アルハラです。古い会社ですから」
「そう、相当ひどいんだね。服までお酒の臭い」
(そういやそうだ……妙に湿っているが、ぶっかけられたのか?)
後輩の匂いについて触れられることなく、家に上がる。
「こんな時間だけど、パパっと作ってくれない?」
「簡単な物でいいですよね? 重たいのは体に悪いですし」
「そういうところが好き……」
ストレートな愛の言葉だが、背徳感のせいで素直に受け取ることができない。
酒臭いジャケットをハンガーにかけ、調理に取り掛かる。
「卵焼きでいいですか? ベーコンとかウインナーも入れますね」
冷凍ご飯を解凍しながら、調理に取り掛かる。
三ヶ月も家事をしているだけあって、慣れたものだ。
「疲れてるのに、悪いね」
「そんなこと、気にしないでくださいよ。何も食べてない未来さんのほうが大変じゃないですか」
それに関しては桜井の自責だが、理由はどうあれ空腹にさせてしまったことを申し訳なく思う糸井。
実際は、それ以上に申し訳ないことをしているわけだが。
「それで、どこまでいったの?」
「何がでしょう?」
「後輩ちゃんと、どこまでいったの?」
軽食を食べながら、さりげない感じでとんでもないことを聞く桜井。
自然すぎて一瞬理解できなかったが、理解した瞬間心臓が跳ね上がった。
「んっ、やっぱり明君のご飯は美味しいね」
「ど、どうも……」
今の質問は一体なんなのか。
単なる世間話ならいいのだが、先ほどの一件を察した上での質問のように思えてならない。
「で? どこまでいったの? 怒らないから、正直に答えて」
「どこまで行っても、ただの後輩ですが……」
「そうなの? じゃあ、ただの挑戦状だね」
「挑戦状……?」
桜井の言ってる意味がわからず、戸惑う糸井。
糸井の疑問に答えることなく、ワイシャツのボタンを一つ一つ丁寧に外す。
「未来さん?」
「可愛い口なんだね」
糸井のワイシャツを剥ぎ取り、背中側を糸井に見せつける。
目に入ってきたのは、赤いシミのようなもの。色だけでは判別できないが、形が正体を物語っている。
(な、なんでそんなとこに口紅が……あの野郎……)
「明るい色だね。明君はこういうのが好み?」
「いえ、あまりよくわからないです……」
ここからどう誤魔化せばいいのだろうか。
正直に話したほうが、結果的に軽傷だろうか?
軽傷で済まなかった場合、どうなるのだろうか?
「後輩のイタズラですね」
「それはわかってる。気付いてなかったみたいだしね」
「後輩にはキツく言っておきます……」
早くこの時間が終わってほしい。この胃痛は暴飲暴食のせいか、それとも尋問のせいだろうか。
「質問わかってる? どこまでいったか聞いてるんだけど?」
「……上司に泥酔させられて、気付いたらホテルにいました」
「後輩ちゃんと?」
「ええ……」
「で? どこまでいったの? 怒らないから正直に話して」
古今東西、この約束が守られた例はない。
だが、糸井はその言葉を信じた。
桜井なら、桜井ならきっと、正直に話せば許してくれると。
「……目覚めた時は裸でした」
ホテルでの一件を包み隠さず、全て話すことを決意する。
取り繕うことなく、一つずつ順番に、事細かく話した。
その気になれば、少しくらいは誤魔化すことができたかもしれない。
だが、都合の悪いことまで全て、洗いざらい暴露した。糸井なりの誠意だ。
「……これで全てです」
「うん……」
沈黙が流れる。
なぜ桜井は押し黙っているのだろう。
情報と感情を整理しているのだろうか。
それとも処刑方法を模索しているのだろうか。
「へぇ、玉って後ろから見えるんだ」
「え、ああ、はい。夏ですしね」
「季節で変わるの?」
予想通り桜井が沈黙を破ったが、切り出し方に関しては予想外だ。
「生でデコピン……痛そう」
「……痛かったです」
「大丈夫? まだ痛い?」
「いえ、さすがに」
「そう、よかった」
嵐の前の静けさ……というわけでもなさそうだ。
他愛のない話から入って、厳しい追及をする。という雰囲気でもない。
「あの、折檻なら一思いに……」
「せっかん……? ああ、折檻ね。エッチな言葉だと思った」
これは笑うところだろうか。
「お互い初めてだったんだね。話を聞く限り、後輩ちゃんは経験豊富そうだけど」
「……アイツも生きづらい人間ですから」
「私と明君。初めて同士で交わりたかった」
「……すみません」
交わることが確定事項だったことについては、何も言うまい。
遅かれ早かれ、そういう展開になっていたことは想像に難くないのだから。
「過ぎたことは仕方ないね。それより、ご飯もう一つ解凍して」
「え、あの」
「まだ豚肉ある?」
「ありますけど、その……」
「お肉だけでいいよ。野菜は入れないでね」
糸井が話したそうなことに気付いていないのか、おかわりを所望する桜井。
成人男性の倍以上食べる健啖家が十時間以上断食していたので、足りないのは当然なのだが、納得はできない。
恋人関係じゃないとはいえ、世間話のように軽く流せる内容ではないはずだ。嫉妬深い桜井ならば、尚のこと。
「いや、未来さん? あの……」
「何? 今日だけは野菜、食べないから。明君はワガママを聞く義務がある」
「それはいいんですけど、その……」
話を聞いてもらえずヤキモキしながらも、おかわりの準備にとりかかる。
「味付けは濃いめでお願い」
先ほどの話を忘れたと言わんばかりに、注文をつける桜井。
糸井はなんとなく察した。これが、桜井なりの罰だと
許してほしいなら、今日だけは健康度外視で好きな物を食べさせろと。今日に限っては文句を言わせないと。
「自炊のメリットは炒めてる時の匂いだね。もうコンビニ弁当なんか食べられない」
「そ、そうですね」
なぜ怒らないのか。なぜ私刑を執行しないのか。
(空腹すぎて私刑どころじゃない? いや、それにしたって異常だ)
暴力は当然として、強制的に一晩中性交をさせられると覚悟していたが、素振りが全く見えない。
「何も言わなくても、ニンニクチューブを入れてくれるんだね。そういうところが、たまらなく好きだよ」
「……恐れ入ります」
桜井でも作れるレベルのシンプルな炒め物だが、ご馳走のように貪る。ここまで美味しそうに食べてくれると、作り甲斐があるというものだ。
だが、今は素直に喜べない。
きっと、食べ終われば折檻が待っているはず。覚悟、いや、期待だ。期待交じりの覚悟か、それとも覚悟交じりの期待か。そこまではわからないが、恐怖を抱きつつも望んでいる。折檻を。
捌かれることで、精神的に楽になりたい。心のどこかで、叱ってもらえることを望んでいるのだ。
「ちょっと食べ足りないけど、もう寝ようか」
「未来さん」
「今日ぐらい歯磨きしなくてもいいでしょ? それとも、食べてすぐ寝ちゃダメ? 今日ぐらいいいよね?」
「それはいいんですが……」
「洗い物は明日でいいから、ほら。」
頑なに話を聞こうとせず、糸井の腕を引っ張って寝室に向かう。
桜井も察しているのだ。糸井が折檻を望んでいることを。
だからこそ、喋らせないように立ち回っているのだ。
「未来さん、話を……」
「もう日付が変わる。寝かせて」
電気を消して、有無を言わせず就寝モードに入る。
結局糸井は、モヤモヤしたものを残したまま一晩を迎えることになった。
たしかに罰だ。下手な暴力や罵倒よりも、よっぽどキツい罰だ。
謝罪や償いというのは、結局自分のためなのかもしれない。
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