第33話 一線

 仕事というのは、費やした時間ではなく、こなした量が大事だ。

 むしろ時間は短ければ短いほうがいい。いかに短い時間で多くの量をこなすか、それこそが肝要だ。

 というのは、本来の話。経営者目線での話だ。

 日本社会、特に古い会社や遅れている会社では、掛けた時間が重視される。

 いかに仕事を早くこなそうと、残業しない者は立場が悪くなる。逆に、ダラダラと残業する人間の評価は上がっていく。

 これだけでも相当不合理な評価制度だが、飲み会も評価に大きく関わる。

 不参加が多くなればなるほど、会社に居場所がなくなる。


「頭いてぇ……」


 占い師と同棲を始めてからの三ヶ月間、定時上がり、飲み会不参加を貫き続けた糸井は、ついに上司に捕まる。

 半ば脅迫気味に飲み会へと強制的に参加させられ、たらふく飲まされた。

 いわゆるアルハラだ。酒を覚えたての大学生のような無茶な飲み方をさせられ、糸井の記憶は二時間程吹き飛んだ。

 そんな糸井を出迎えたのは、見知らぬ天井だ。


「どこだここ? ん? あれ、服は……」


 脱ぎ癖はないはずだが、何故服を着ずにベッドの上に。

 そもそも、ここは一体どこなのか。

 酔いが残っている頭を働かせ、記憶を辿ろうと試みるが何も思い出せない。

 こういう時は、外部からの働きかけ、外的要因で思い出したりするものだ。


「お水をどうぞー」

「……なんだお前、服を着ろ」


 自分と同じ格好で水を差し出す後輩を見て、意識を失う直近の記憶を取り戻す。

 過度のアルコール摂取で判断力を失い千鳥足になっている糸井を、後輩がエスコートしたのだ。ラブホテルまで。


「安心してくださいよ、まだ何もしてませんから」

「……ああ、何かをした記憶はないが……」


 一糸纏わぬ自分と後輩の体を交互に眺める。


「寝苦しそうだから脱がせただけですって。それ以上のことはしてませんよ」

「それに関しては信じる。意識のない相手に手を出すヤツじゃないと思ってるし」


 勝手に脱がされた時点で、いや、ここに連れ込まれた時点で有罪だが、思いのほか冷静な糸井。


(未来さんには遅くなるって連絡したし、まあそれはいいとして……匂いが……)


 どう申し開きをすればいいのか、頭を悩ます。

 今度ばかりは、ケーキじゃ回避できないだろう。


「まあまあ、お水飲んでシャワー浴びましょうよ」

「……そうだな」


 過剰にアルコールを摂取させられたのもあって、物凄い勢いで水を飲み干す。

 五百ミリのペットボトルだが、これでもまだ足りないぐらいだ。


「アレだけお酒飲まされて、よく吐きませんでしたねぇ。普通の会社だったら、チェイサーぐらい挟んでくれますけど」


 同じアルコール摂取量でも、合間合間に水を挟むだけで体調は大きく変わる。

 残念なことに、頭が古い上に致命的に悪い連中には、チェイサーなんて概念がそもそも存在しない。


「挟んでくれたろ? お前が」

「え?」

「気付いてるよ。たまに、ソフトドリンクとサワーをすり替えてくれてたろ?」


 ラブホテルに連れ込まれた時点で後輩も敵側に見えるが、実際のところは違う。敵どころか、頼もしい味方だ。

 酔い潰そうとする頭のおかしい連中の隙をついて、ノンアルコールを差し入れしていたのだ。中々の巧者だ。


「俺がトイレに立った時、水を持ってきてくれたのも覚えてる」

「結構ガッツリ覚えてるんですね。恥ずかしいんですけど」

「お前にまつわる部分は、そこそこ覚えてるよ」


 そういうことばかり言っているから、こういうことになる。

 この状況で親愛度を上げることの危険性を、もう少し考えた方がいい。


「あっ、ちょっとタンマ」


 立ち上がってシャワーに向かう糸井を呼び止める後輩。


「動かないでくださいね」

「なんだ? 何をしてる?」


 自分の背後でしゃがんでいる後輩を怪訝に思いつつも、要求通り微動だにしない。


「はぇぇ……後ろからでも見えるんですねぇ」


 物珍しさに感嘆の声を上げる。

 妙な気恥しさを覚え、動く許可を求める。


「……バカやってないで早くシャワー浴びるぞ、さっさと帰りたいんだ」

「もう少し見せてくださいよぉ。後ろから見るの、なんか好きなんです」


 泥酔しているのをいいことにラブホテルに連れ込んだだけでは飽き足らず、特殊性癖に付き合わせるその神経。図太さもここまでくると、称賛に値する。


「何が楽しいんだよ。俺には……あぐっ」

「うわぁ、いたそー」


 後輩は何を思ったのか、興味の対象にデコピンをかます。それは、戯れと呼ぶには強烈すぎる一撃だった。一切の手心なく、全身全霊を込めた無慈悲な一撃。

 当然糸井は悶絶するが、それを他人事みたいな目で見降ろす。


「お前、お前、お前」

「ほら、シャワー浴びましょうよ」


 文句は受け付けないと言わんばかりに、糸井の腕を引っ張る。

 痛みを堪えつつ、大人しく従う。

 糸井に体を洗ってもらいながら、質問を投げかける後輩。


「怒らないんですか? 痛いんでしょ?」


 指でツンツンしながら糸井に問う。


「怒ってるのはお前だろ?」

「……よくわかってるじゃないですか」


 心なしか、突く威力が上がっていく。


「月曜日、一時間も早く来てたんですよ?」

「すまんな……」


 当然だが、月曜日の早出はすっぽかした。桜井にバレているのだから、当然だ。

 嫌いな会社に、無駄に一時間も早く出社した後輩の心境は想像に難くない。


「同居人さんに怒られたんですね?」

「ああ……」

「どういう関係なんです? 恋人じゃないんですよね?」


 糸井の局部で手遊びをしながら、質問する。

 質問が詰問、拷問に変わる恐れもあるので、下手なことは口走れない。

 その緊張を悟ったのだろうか。


「心配しなくても痛いことはしませんよ」

「さっきデコピンしたろ?」

「あの状況じゃしたくなりますよ」


 その心境は理解できないが、追及はするべきじゃないと判断し、桜井との関係についてポツポツと語りだす。

 占いについては徹底的に伏せたが、問題なく伝わったらしい。


「よくわかんないですけどそれ別に、先輩と私が何をしても問題なくないですか? 文句言われる筋合いないでしょ?」

「……俺も気になりだしてんだよ」


 自分が抱いているのが恋心なのか、ただのスケベ心なのか。

 自分がいなくなった場合、桜井はどうなるのか。桜井がいなくなった場合、自分はどうなるのか。

 何もかもわからなくなり当惑する糸井だが、後輩はそれをチャンスと捉えた。


「まだその段階ですよね? じゃあ早い者勝ちです」

「おい、ちょ、待て……」


 待たない。後輩は待たない。一秒たりとも待たない。

 ホテルに連れ込んだ段階では、一緒にシャワーを浴び、少し話をする。あわよくばキスぐらいはする。その程度の可愛らしい計画だった。

 だが、糸井と桜井の関係がそこまで進んでいないことを知り、自制心が破壊されたらしい。その場の雰囲気やホテル特有の空気感、それらも手伝ったのかもしれない。

 初めは抵抗していた糸井も、徐々にノリノリになっていき、なし崩し的に一線を越えてしまった。

 あずかり知らぬところで先を越された桜井は、何を思うだろうか。


「最低だ……俺っ……」

「〝いないいないばあ〟ですか?」


 両手で顔を覆う糸井をからかう後輩。

 糸井は、言い返す気力もないらしい。


「あんなに血が出るなんて、知りませんでしたよ」

「許しとうせ……」


 責められていると勘違いし、ただただ謝罪する糸井。

 一応襲われた側だが、結果としては合意の上での行為となったので、落ち込むのも仕方ない。


「あはは、責任取れなんて言いませんよ。既成事実が出来たとも思ってません」


 ベッドから起き上がり、ゆっくりと服を着る後輩。

 このまま結婚まで押し切られると覚悟していた糸井は、拍子抜けする。


「ま、同居人さんのヒモになるか、私のアシスタントになるか。最終的な判断は、先輩にお任せしますよ」

「……裏方どころか、配信なんてド素人だぞ」

「初めは誰だってそうですよ。んじゃ」


 言いたいことだけ言って、一足先に部屋を出る後輩。

 呼び止める理由もなければ、気力もない。

 黙って見送り、頭を抱える。


「未来さんになんて言い訳しよ……」


 服を着る気力も出ず、茫然自失とする。

 かといって、このまま眠りに着くわけにもいかない。

 三十分ほど休んだ後、アルコールのダメージと背徳感を抱えて帰路についた。

 その足取りは、人生で一番重たかったという。

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