第31話 警告
妙に勘の鋭い桜井も、お土産のケーキで簡単に誤魔化された。念には念を込めて三種類買ったのが、功を奏したのだろう。
普通なら重いかもしれないが、健啖家の桜井としては食べ足りないくらいだ。
(お持ち帰りできてよかったぁ……)
この保険がなければ、女の影を見抜かれていただろう。末恐ろしいのか、ちょろいのか、よくわからない女だ。
貢物がよほど魅力的だったのか、普段より早い出社も怪しまれなかった。頻繁に早出すれば、いずれボロが出るかもしれないが。
いや、ボロなら既に出ている。ボロというには、あまりも微細なミス。糸井の親でさえ気づかない程度の変化。だが、桜井の目には、たしかに異変として映った。
普段辛そうに出社している糸井が、普段よりも上機嫌だった。早出という、普段よりも厳しい条件下にもかかわらず。
上機嫌といっても、それはあくまでも桜井視点での話。一般人から見れば、平日の朝に絶望する、冴えないサラリーマンの顔以外の何物でもない。
ゆえに、ボロを出した自覚は皆無。完全犯罪を成し遂げたつもりになっている。
実際に桜井も『お仕事、上手くいってるのかな?』程度の認識であり、密会を重ねようとしているなど、よもや考えもしなかった。
(静かだな、この時間の会社は)
糸井の目論見通り、喫煙室に人はいない。そもそも、会社にあまり人がいない。
人が来たときに誤魔化すためのタバコを手に、足を踏み入れる。
「うっ……くっせぇな……」
換気設備に金をかけているようだが、非喫煙者にとっては耐えがたい臭いだ。
あまり良い気分はしないが、耐えながら後輩を待つ。
「せんぱぁい!」
目を輝かせながら、喫煙所に入室する後輩。
約束通り、いや、独り言通りに早出していることが嬉しいのだろう。
「良かったぁ。いなかったら早起きし損ですよ」
「なんの話か、さっぱり」
白々しいことを言いながら、周りに人がいないことを確認する。
「どこの会社でもそうなんだろうが、喫煙所で仕事の話が進むってのがよくあるらしいな。吸わない人だけ置いてけぼり、みたいな?」
「へぇ、酷い話ですねぇ」
「普段話す機会がない人達が交流を取れるって意味じゃ、悪くないのかもな」
「ふむふむ……喫煙所ってのは、お話の場なんですね」
糸井の話に傾聴して、うんうんと頷く後輩。
仕事にもこれぐらいの熱意を持ってほしいものだ。
「連携が取れていない先輩社員と後輩社員。お話をしないとな」
「……そうですね、えへへ」
糸井の見立てでは、喫煙者達が来るのは四十分後。
初回ということもあり、三十分で切り上げることにする。
とても、濃密な三十分。
喫煙者達の非生産的なお話よりも、よほど有意義なお話ができたようだ。二人の満足げな表情が、全て物語っている。
「先輩のお話……難しくてわかりませんでした」
「そうか……もっと時間をかけて、じっくりと話す必要があるな……来週の月曜日あたりにでも」
「ご指導ご鞭撻のほど、よろでーす」
「可愛げが出てきたな」
勉強の約束を取り付けた後は、何事もなかったかのように業務に取り組んだ。
周りから見れば、後輩にコケにされても怒れない情けない先輩。もしくは、アイドルに構ってもらえる羨ましいヤツ。嘲笑か嫉妬、いずれにしろよくない目で見られていることはたしかだ。
だが、そんなことは全く気にならなかった。誰がなんと言おうと、二人は、二人だけは通じ合っているのだから。
(そういや、配信者がどうこう言ってたけど……聞きそびれたな)
指導に力が入りすぎたようで、肝心の会話があまり進まなかったようだ。
急ぎでもないし、来週じっくり話せば問題ない。と、既に来週が待ち遠しくなっている。羨ましいものだ、月曜日に楽しみがあるなんて。
「ただいま戻りました」
「お帰り、早出お疲れ……待って?」
帰宅を出迎えてくれた桜井の様子がおかしい。
いや、おかしいのは糸井だ。糸井の体臭に異変がある。
「明君? タバコ臭いんだけど?」
「すみません、ハゲ上司に喫煙所で説教くらいましてね……ホント、卑怯ですよねぇ。人目につかないところでパワハラなんて」
半分は真実である。スラスラと言い訳ができたのは、実際に糸井が経験したことだからだ。
もう半分、嘘の部分は、今日じゃないということだ。喫煙所パワハラ事件は一年以上前のこと、糸井に染み付いた臭いとはなんの関係もない。
「そう……押し入れに消臭剤が入ってるよ」
「ありがとうございます。助かります」
桜井に対して後ろめたいことをしているつもりは毛頭ないのだが、それでも謎の背徳感がある。だが、それをおくびにも出さない。
少しでも弱みを見せれば、感づかれる恐れがある。家にいる間は、今朝のことを忘れるべきだ。
「なんか機嫌いいね?」
「華金ですから」
「え? なんて? 下ネタ?」
「華金、華の金曜日です。どう聞き間違えたかは、なんとなくわかります」
他愛のないトークをしてしまったが、おかげで上手く誤魔化せたと安堵する。
否、誤魔化せていない。桜井は、そこまで甘くない。
「タバコの臭いだけじゃなくて、良い匂いもするね」
「良い匂い? 男のスーツなんて等しく臭いでしょう」
「アナタの匂いは良い匂いなんだけどね……それとは別の、甘い香り」
「……? 昨日のケーキではなくて?」
誤魔化し方、とぼけ方自体は中々のものだ。
だがしかし、状況がよろしくない。
(後輩と抱き合ったからか? タバコの悪臭で誤魔化せると思ったんだが、さすがに甘かったか?)
否、本来であれば上手く誤魔化すことができていた。
嫌煙家の桜井からしてみれば、タバコの臭いは耐えがたいものだ。
念には念をと、糸井自らタバコを吸って臭いを服に染み付けていたので、本来は後輩の匂いをかき消すことができていた。
そう、これは後輩の狙い通りの展開だ。
長時間抱き合うことを想定し、ふんだんに香水をふりかけていたのだ。
男女の嗅覚の差もあってか、糸井は気付かなかったようだが、桜井は見事に嗅ぎ分けた。後輩の思惑通りに。
「ま、明君が無事に帰ってきてくれれば、それでいいけどね」
気にも留めていないような発言をしているが、明らかに腹に据えかねている。
その証拠にネクタイを鷲掴みしている。このままでは結び目が固くなって、ほどく時に相当苦労するだろう。
「……信じてあげる」
「え?」
「ほら、さっさと着替えて、肩を揉んで」
何事もなかったかのように、通常営業を再開する桜井。
言うまでもないがこれは、『今回だけ許してやる』という意味だ。
(もしかしてだけど、未来さんって……変人だけど、人並みの恋愛感情が?)
何を今更。今まで何を見てきたというのか、この男は。
同棲し始めの頃は仕方ない。急な展開についていけないのも無理はないし、桜井も今以上に傍若無人だったので、好意に気付かないのも当然と言えば当然だ。
だが、最近の桜井はあまりにも露骨。ストレートに好意を向けている。なぜ気付かないのか、不思議で仕方がない。
(金を持て余した狂人の気まぐれだと思ってたけど……そうだよな、いくら変人でも男を家に住ませたり、毎月大金渡したりせんよな)
本気で気付かなかったのか、それとも気付かないようにしていたのか。
いずれにせよ、もう後戻りはできない。
(嫉妬か……思い返してみれば、女性とすれ違うたびに暴力振るってきてたよな)
「明君? 早く肩揉んで。あと、コーヒー淹れてね。わかってると思うけど……」
「フーフーすればいいんですよね」
「んっ」
桜井の気持ちを受け入れるべきか。それとも後輩の気持ちを受け入れるべきか。
もしくはどちらの気持ちも受け取らない。
あるいは……。
(両方か……?)
地獄絵図不可避の選択肢が脳裏をよぎる。
抱き合っただけでバレたというのに、そんなことが可能なのだろうか。
後輩は認めてくれるだろう。桜井と同棲しながら、自分と付き合うことを。
だが、桜井は決して認めないだろう。桜井に限らずまともな人間なら、同じことが言えるだろうが。
「明君? フーフーしすぎじゃない?」
「……未来さんが火傷しちゃいけないですから」
「そう……ありがとう。そうだね。火傷も、心の傷も、どっちも辛いからね」
(……月曜日は普通に出社するか)
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