第30話 早起きの気分
書類無限手直し地獄から無事に抜け出し、例の喫茶店に入る二人。桜井に目撃されれば、その場で刺殺事件が起こるだろう。
いや、刺殺ならば、まだ比較的平和な末路かもしれない。
「えっと、同じのをもう一つください」
「んくく……」
後輩の注文を参考にしようとしたが何一つ理解できず、無難に逃げを打つ。
この事態を事前に予想していた後輩だが、いざ目の当たりにすると笑いが堪えきれないようだ。気持ちはわかる。
「凄いな、お前。あんな呪文みてーなの、よく詠唱できるな」
メニューを確認しても、どこを見て今の注文をしたのか全くわからない。
常連たちは、どんな心境で呪文を唱えているのだろうか。
ゲームの裏技を友達に披露する小学生のように、得意気になっているのだろうか。
少なくとも、糸井にはそう見えている。
「……先輩、笑われたのに怒らないんですか?」
「不快な笑顔じゃなかったからな」
「先輩の独特な口説き方、好きですよ」
口説いたつもりはないと、そっぽを向く糸井。
視線の先にあるのは、ケーキやタルトといったスイーツだ。
(持ち帰りできるんかね? 未来さんこういうの好きだよな? コンビニスイーツがどうこう言ってた気がするし)
「先輩? 別の女のこと考えてません?」
女の勘とは、かくも鋭いものか。嫉妬がこもったジト目を糸井に向けている。
まさかとは思うが、心を読む能力を持っているのだろうか。
桜井の必中する占いの件もあるので、後輩が特殊な能力を持っている可能性も捨てきれない。
「悪いか?」
「悪いでーす! ビンタ案件でーす!」
両手でバッテンを作り、糸井を咎める後輩。暴力的な後輩ではあるが、クロスチョップの構えではない。糸井の対応次第かもしれないが。
「勘違いするなよ、俺はお前の話を聞いてやろうと思って、時間を取ってるだけだ」
「ちょっと遠いですけど、ホテルありますよ?」
「……早いな、もう注文してたヤツできたみたいだぞ」
後輩のジョークらしきものをスルーして、飲み物を受け取りに行く。
ジョークで終わるかどうか、それはここからの流れ次第だろう。
「テラス席で飲みましょうか」
「会社近くだぞ?」
「一緒にいるとこ、見られたくないですか?」
「……俺はどうでもいい。お前が男性社員に売ってきた媚びが、無駄になるかもしれないってだけの話だ」
諦めの境地にいるのか、本格的に周りの目を気にしなくなっている。
いわゆる無敵の人というヤツだろうか?
この精神状態で定年まで持つのだろうか。
「無駄になってもいいですよ。言ったじゃないですか、私は仕事する必要なんてないって」
そう言ってテラス席に歩みを進める。
「そう、それだよ、俺が聞きたかったの。細いお腹を見せてくれただけで、詳細については全く聞けなかったからな」
「……もう一回見たいですか?」
「……コーヒー代と相殺な」
無償で奢るつもりだったが、これで貸し借り無しにしようと提案する。
対等な関係でいたいし、お腹も見たい。贅沢な男だ。
「ケーキを付けてくれたら、おさわりオッケーですよ?」
「注文の仕方がわからなくて困ってたところだ。また同じのを頼ませてもらう」
断っておくが、糸井は桜井の気持ちに気付いていないし、恋人関係になっていることを知らない。知らない時点で恋人と呼べない気もするが。
お互いに相思相愛であることを認めているなら、このような行為は絶対にしない。
決して、浮気性というわけではない。
「嬉しいです……」
「そんなにケーキが好きか? 安月給でもケーキぐらい……」
白々しくすっとぼける。
これは大人の駆け引きなのか、それとも社会からはみ出した者同士の茶番なのか。
「先輩に求められるのが嬉しいんですよ」
「求めたつもりはないが……」
「いーえ、手間のかかる後輩から、一人の女になりつつあるはずです」
「……否定はしないが、変化はそこで打ち止めだ」
あわよくば今夜このまま……という考えが無かったと言えば嘘になるが、桜井から受け取った大金が脳裏をよぎり自制する。
「彼女さんが大事なんですか?」
「彼女じゃないが、不義理なことはできん」
アフターファイブに別の女性と喫茶店に行き、お腹を触ろうとしている時点で不義理な気もするが、桜井の気持ちに気付いていないのでノーカンだ。
気付いていないというのも、それはそれで不義理かもしれないが。
「チューしたんですか? チュー」
「彼女じゃないと言ってるだろう」
「どういう関係なんですか? 先輩には説明責任が……」
「ない。あったとしても、お前の話が先だ。お腹はいいから、話せ」
本音を言うなら、うやむやになる前にお腹を触りたい。
だが、ガツガツしすぎるのもよろしくないと判断し、とりあえず話を進める方向で行くことにした。
普通の女性相手なら、それで正解かもしれない。だが後輩は求めている。獣の如くガツガツくることを。
「じゃあ話しますけど、いつでも触っていいんですよ?」
シャツをまくりながら、本題に入る後輩。
机が邪魔で良く見えないはずなのに、意識を持っていかれる。
(対面じゃなく、九十度の席に座った理由がわかった……手が届く位置に座りたかったんだな)
他の客が見ていないことを確認してから、手を伸ばす。
(柔らかい……それに妙にスベスベだぞ)
「んっ……私、入社する前から……あっ……あっ」
「おい、わざと変な声出してるだろ」
さすがに声を出すのはやめろ。そう言いつつも、糸井の手は止まらない。
(コイツが望んでいる関係になったら、いつでも……いや、ダメだダメだ)
腹一つで篭絡されかけたが、必死に持ち堪える。
まさにギリギリ、土俵際もいいところだ。行司が足下をガン見するレベルで追い込まれている。
「入社する前から、なんだ?」
「配信者やってまして……人気が……んっ……あっ」
「……触るのやめたほうがいいか?」
「いえ、続け……んん……住民税でバレ……くすぐったいですよ!」
「うん、先に話を進めようか。調子に乗りすぎた。うん」
後輩の抗議で、我に返る。
後輩も惜しいことをしたものだ。もう三分ほど触らせておけば、ホテルに連れ込むことができたというのに。
お互いに気分がおかしくなっており、ケーキが届くまで妙な沈黙が続いた。
「先輩初めてなんですよね? これマジでおいしいんですよ」
気まずい空気を解消したいのか、純粋にケーキをプレゼンしたいのか、酸味がどうだの、写真映えがどうだの、聞かれてもいないことをペラペラと喋りだす。
対する糸井は、聞こえないと言わんばかりの切り出し方をする。
「……これは独り言なんだが」
「え? はいっ」
「ウチの喫煙者共は、揃いも揃って始業ギリギリにくるんだよな」
「喫煙者……あー、言われてみればギリギリで……先輩?」
胸に手を当て、呼吸を荒げる後輩。
「さてと、明日は三十分ほど早めに出社しようかなぁ」
「……奇遇ですね、私も早起きしたい気分です」
帰りが遅くなるのはまずい。
だが、朝が早くなる分には問題がない。
悪い男だ、この男は。桜井の好意を知らないとはいえ。
「明日聞くよ、話」
「もう帰っちゃうんですか?」
名残惜しそうな顔でケーキをつつく後輩。
糸井としても、もうしばらく残りたいが、後ろ髪を引かれる思いで席を立つ。
「俺が晩御飯作らないと、同居人が餓死しちまうから」
「……大人……ですよね? その人」
「その辺もいずれ話すさ。早起きする度に話が進むかもな」
「えへへ、なんか……いけないことしてる気分ですね」
「いいことさ、早起きは」
ササッとケーキとコーヒーを胃に流し込み、駅へと向かう。
どこか浮かれているように見えるのは、気のせいじゃないだろう。
(アイツも苦労してたんだな……男に愛想振りまく下卑た処世術だと思ってたが、アイツからしてみりゃ、そうせざるを得なかったんだろうな)
この社会……いや、それは主語が大きすぎるか。
この会社が悪い。未来を作るのは老人ではないということを理解できない、前時代的な会社が悪い。アイツも被害者なんだ。と、珍しく桜井以外のことを考えながら、帰りの電車に揺られた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます