第29話 共感性

 仕事に私情を持ち込んではいけない。

 経営者ならまだしも雇われている立場の人間が、自分の気分一つで会社に損害を出してはならない。

 社会人経験がなくともわかることだが、悲しいことに理解していない人間が多い。

 歳をとっただけの子供が多いのは、年功序列の弊害だろうか。


「頭わいてんのかよ……」


 上司に難癖をつけられ、書類の手直しをするハメになった糸井。

 平社員ならまだしも、役職者がこの稚拙さとは、お先真っ暗だ。この会社に未来はないと言っても過言ではない。


「なんだよ、お辞儀判子じゃないから書き直しって」


 真剣に退職を検討しつつも、律義に書類を書き直す。

 誰も得をしない無駄な作業、虚無な時間だ。

 内ゲバで無駄な人件費が発生するなんて、経営者としてはたまったものではないだろう。経営というのは、目先の利益よりも、環境づくりや人事に力を入れるべきかもしれない。


「大変ですねぇ、先輩」

「誰のせいだと思ってる」


 元凶が糸井に絡んできた。状況が悪化するから、近づいてこないでほしい。

 そう思っても、口にはしない。会話が無駄に長引くだけだと、知っているからだ。

 いや、それだけではない。それだけならば、どれほどよかったことか。

 職場での立場や評価がどうでもよくなりつつある糸井は、心のどこかで後輩を求めている。絡まれるのは面倒だが、絡まれなければ、それはそれで寂しい。

 桜井に対する感情も似たようなものだ。

 元より依存体質なのか、とかく辛いことが続いているせいで精神がおかしくなっているのか。どちらにせよ、まともとは言いづらい。


「怒ってます? 私のこと」

「いや、さすがに周りがおかしいわ。今時、小学生の方がまだ理知的だぜ?」


 元凶に違いはないのだが、実際にイジメをおこなっているのは周りの人間。ここで後輩を責めたら、ヤツらと同レベルまで落ちることになる。


「先輩って変わってますよね」

「よく言われる」


 実際のところ、あまり言われたことはないが、適当に相槌を打つ。

 言ってくるような人間が周りにいなかっただけで、変わり者だという自覚は少なからずある。ないとしても、申し開きが面倒なので、相槌が正解。

 合理的といえば合理的だが、知らないうちに自分の首を絞めかねない考え方だ。


「こんな会社、辞めちゃいます? 私と」


 人生に関わるレベルの駆け落ちを、真剣な顔で提案する後輩。人生に関わらないレベルの駆け落ちのほうが少ないかもしれないが。


「俺はともかく、お前は辞める必要ないだろ。女性社員以外からは愛されてんのに」

「石を投げれば当たるレベルの有象無象からの愛に、価値なんてあります? 先輩に愛されなきゃ意味ないんですよ」

「俺も有象無象だよ。アイツらほど低俗じゃないと自負してるが」


 なぜ自分なんかに懐いているのか。他の社員に愛想を振りまいたほうが得なのに、なぜ恩恵が皆無の自分のもとに来るのか。

 全く理解できないが、悪意がないことはなんとなくわかるので、強く当たることができない。


「私みたいに可愛いと、胸の内を晒してくるんですよ。皆」

「……気苦労が多そうだな」

「そうなんですよ。つまらない人ばっかで、人付き合いが嫌になります」


 何事もほどほどがいいのかもしれない。

 妬まれない程度に整った容姿。危険は事前に察知できるけど、気付かないほうが幸せなことは都合よく見落とすレベルの直感と頭脳。孤立することもないが、人が群がってくることもないレベルのコミュ力。

 成功すればするほど身動きが取れなくなり、失敗すればするほど選択肢が狭まる。


「贅沢な悩みとは言えないのかもしれんな。実際に可愛く生まれたら」

「わかってくれます?」

「……能力ない側だから共感はできんが、心中察するくらいは」


 会話を打ち切るために、書類を上司のもとに持っていく。

 予想通りとでもいうべきか、今度は「字が汚い」と難癖をつけられ、再び書き直すことになった。


「私とお話してたからですねぇ」

「わかってんなら自分の席に戻ってくんない? 仕事ないのか?」


 素直に言うことを聞いてほしい。

 でも、反抗してお喋りを続けてほしい気もする。

 糸井も随分と面倒な男になったものだ。


「私がサボっても、怒られるのは先輩ですから」

「そりゃよかった……」


 今の台詞は、どういう意味だろうか。

 いや、きっと色々な意味がこめられているのだろう。


「さてと、何回書き直しくらうかなぁ」


 今度はどんな難癖をつけられるのか、逆に楽しみになってきた糸井。

 ケチをつけようがないぐらい、一文字一文字丁寧に記入していく。どうせ紙くずになるとわかっていながらも。


「なんでパソコンで書類作っちゃダメなんですかね?」

「上の連中が頭の悪いジジイばっかだからだよ」


 後輩や桜井を抜きにしても、仕事を辞めるべきだろう。年齢的にも、今ならまだ転職は可能だ。遅れれば遅れるほど、損をする。

 だがそれでも糸井は、退職という選択肢を取ることができない。


(この状況で辞めたら、転職せずにヒモになっちまうんだろうな……はぁ、俺も大概俗物だな)


 無職は人として最低。ヒモになるなんて言語道断。宝くじに当選しようが、仕事は続けるべき。

 それは、働かざるをえない立場の人間だからこそ言えることだ。

 いざ仕事をしなくていい状況になったら、普通の人間は仕事なんてしない。

 スポーツ選手やクリエイターなど、自分の好きなことを職業にしている人間なら、話は別だろうが。


「先輩、私って働く必要がないんですよ」


 糸井の心を読んだかのように、タイムリーな話題を提供する後輩。

 妄言だと決めつけつつも、一応話を聞くことにする。


「実家が太いのか?」

「いーえ、私と同じぐらい細いですよ」


 あまり上手くない返しと共に、シャツをまくって腹を見せる。

 男の本能で目に焼き付けてしまったが、平静を装って注意する。


「こんなとこでヘソを出すな。他の人に見られたらどうする」

「お腹じゃなくてヘソですか? 好きなんですか?」


 たしかに今の言い方は、少しおかしかったかもしれない。

 考えもしなかったが、自分はそういう性癖を持っているのだろうか?

 と、くだらない疑問が湧き上がってきたが、それを振り払って後輩を諭す。


「……あんまりからかうな。男なんてろくでもない生き物だって、誰よりも知ってるだろ」

「ろくでもないこと、してもいいんですよ?」


 今の台詞は省略されている。

 本来の台詞では「糸井先輩になら」という文言が、頭についている。

 恋愛に鈍感な糸井でも、それぐらい察しているらしく、誤魔化すように後輩を追い返そうとする。


「さすがにサボりすぎだ。そろそろ仕事しろ」

「ひゃうっ」


 ボールペンの尻の部分でヘソを突かれ、職場であるにもかかわらず艶めかしい声を出す後輩。

 心地よい声だと感じてしまった自分に、嫌悪感を覚える糸井。


「えっち……」


 ヘソを押さえながら、上目遣いで糸井を睨む。

 その目には、怒りや恨みなどこもっていない。もっと別の何か……得体の知れない感情がこめられている。


「文句は仕事が終わってから聞いてやる」

「えっ……それって……」

「最近の喫茶店は注文が難しそうだからな。気になっても、時代遅れの男一人じゃ入れんのだ」


 素直になれない糸井だが、意図は伝わったらしく、大人しく席に戻る後輩。


「先輩とデート……先輩とデート……」

(……? 呪詛?)


 後輩に対する面倒見の良さ、性格の甘さ。それは疑いようもないのだが、本当にそれだけだろうか?

 二人にだけ通じるもの、シンパシーのようなものを感じているのかもしれない。

 依存体質の男が依存先を二つ作った場合、どうなるのだろうか。

 今はまだなんとも言えないが、決して良い方向に転ばないことは確定だろう。

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