第26話 女難の相
サラリーマンの朝は早い。
桜井と同棲しているため、通勤時間が三十分延びたので、最低でも三十分早く起きなければならない。
それだけでも辛いが、さらに一時間、つまり一時間半早く起きなければならない。
「朝食なんざパンでいいだろうに……」
一人暮らしの頃は、菓子パンと缶コーヒーで朝食を済ませていた。
なんだったら、食べない日もある。
それが今や、自炊を強要されている。
「みそ汁がインスタントでオッケーっていうのが、せめてもの救いだよなぁ」
雑な飴と鞭に感謝しつつ、スクランブルエッグを作る。
ベーコンはまだしも、ほうれん草を混ぜろというのが面倒で仕方ない。
出社前の人間には酷な要求だ。自分は卵さえまともに割れない人間のくせに。
「しっかし、なんで弁当箱に詰めなきゃいけないんだ? 昼飯ぐらい、家で食えばいいのに」
職場まで徒歩一分かそこらだというのに、なぜわざわざ弁当を用意しなければいけないのか。ブツブツと不満を述べる。
昼食を作り置きすることに対しては不満がないあたり、調教が行き届いている。
「朝食がスクランブルエッグで、昼食は卵焼きってこだわりもよくわからんし」
「悪口?」
「いえ、手間が……おわっ!?」
珍しく自力で起床した桜井が背後に立っており、飛びのく糸井。
調理中に驚かせるのは危険だから、国で禁止すべき。
「早いですね、今朝は」
普段は声をかけながら体を揺すっても中々起きない桜井が、自力で起床したことに驚きを隠せない。
不機嫌な桜井を起こすというイベントをスキップできたのは、喜ぶべきことだが。
「コーヒー飲みすぎたからね、おしっこに行きたくなった」
「……行ってらっしゃい」
「エスコートして」
「……調理中です」
「けちんぼ」
「時間がないから、甘えるのは帰宅後にしてくれ」と、心の中で愚痴る。
甘えられること自体は不快じゃないし、むしろ嬉しい。そう思っているあたり、もう攻略完了ではないだろうか。
「睡眠さえ取れたら、いくらでも世話すんだけどなぁ」
もう攻略完了だろう。疑いようもない。
その後も、寝癖を直してあげたり、朝食を食べさせてあげたりと、出社前とは思えないほど甘やかした後に、家を出た。
最初の頃は、家を一歩出た時点で解放感に包まれていたが、今は寂しさに包まれている。電車の中で小説を読んでいる時も、頭の中には常に桜井がいる。
「せんぱぁい!」
会社の自販機でジュースを選んでいると、例の後輩が背後から抱き着いてきた。
他の男性社員なら即落ちだろうが、糸井からしてみれば邪魔でしかない。
「おはよう、どっか行け」
「えー? ツンデレですかぁ?」
(コイツ本当に新人か? 新人類の間違いだろ)
若い美人が嫌いなお局さんと、どうにかしてぶつけてやれないものか。などと、卑劣な復讐を画策していると……。
「先輩、元気注入してあげますから、こっち見てください」
「あ?」
腰にしがみつく後輩を、鬱陶しそうに睨みつける。
目が合った瞬間、糸井に激痛が走る。
「ぐえっ!?」
桜井とは比較にならない握力で掴まれる局部。
訴えれば勝てるであろう、明確な暴力だ。
「なんですか今の顔? 『ぐえっ!?』って」
糸井のリアクションがツボに入ったらしく、真似をする後輩。
先輩後輩だの社会人だの、それ以前の問題だ。人として一線を越えている。
「写真撮りますから、もう一回そのリアクションくださいよ」
自販機に体重を預けて悶絶する糸井に、スマホのカメラを向ける。
性別が逆なら、その日のうちに警察が介入するだろう。
「いつまで痛がってるんですか? 私のほうが痛いですよ? 笑いすぎてお腹が」
掴まれた時の表情を何度も真似しながら、過呼吸気味に笑う後輩。
糸井以外の社員には、絶対にしない行動だ。
「感触が気に入ったんで、もう一回いいですかぁ?」
「いいわけねーだろ!」
吐き気と痛みを堪えながら、他の社員に聞こえない程度の声で怒鳴る。
「そんなこと言ってぇ。ご褒美みたいなもんでしょ?」
「何意味の分からんことを……」
「先輩ですよ、イミフなのは。職場のアイドルに、タダでこんなことしてもらえるなんて、普通の男なら嫉妬で死にますよ?」
もしかしたら桜井は、比較的まともな女性かもしれない。
そう思えるほど、トチ狂った価値観、倫理観だ。
「先輩って理屈っぽい男ですよね?」
痛みで悶える糸井に、喧嘩を売っているとしか思えない質問を投げかける後輩。
「なんだ急に」
「だから先輩の土俵に乗って、論破してあげます」
「は?」
なんとも独特な喧嘩の売り方だ。
糸井は思った。「そのゆるふわの脳みそで、誰を論破できるんだ」と。
どんな馬鹿げた理論が飛び出してくるのか、逆に楽しみになっている。
「まず先輩が私の可愛さになびかない理由。最初はゲイだと思いましたが、多分違いますね。あのデブ先輩をエッチな目で見てますし」
「デブ先輩?」
「わかってるくせにぃ」
糸井がとぼけていると勘違いして、肘で鳩尾をグリグリする。
可愛いものだ、力加減さえしてくれたら。
「ほら、職場のバカ男共をたらしこんでるアイツですよぉ」
「自己紹介か?」
「元気注入します?」
手の開閉を繰り返して、糸井に脅しをかける。
脅しで済むかどうかは糸井次第だろう。
「で? 続きは?」
「同性愛じゃないもう一つの根拠。先輩、女できたっしょ?」
愚鈍そうに見えて、中々目敏い女性のようだ。だてに男を手玉にとっていないと、言ったところだろうか。
「最近あんまり残業しませんし、ネクタイやシャンプー変えましたよね? あと、体から女の匂いがしますよ」
(コイツ……職場の男全員、観察してんのか? なんつー処世術だ)
真似する気は起きないが、見習うところはあるかもしれない。などと、感心に近い感情を覚える。
「私に興味を示さないのは、単純に女の趣味が悪いからですねぇ」
「普通だが? むしろ見る目あるほうだが?」
いや、ない。少しでいいから、自分を客観的に見たほうがいい。
「はいはい。で、ご褒美を素直に受け取らない理由。女の趣味が悪いことに加え、根性がないからですねぇ」
「お前の価値観が歪んでるんだよ。あんなのご褒美でもなんでもない」
「百歩譲ってそうだとしても『ぐえっ!?』はないですよ、んくく」
糸井のリアクションを思い出し、またもや過呼吸気味になる。
ツボが浅いというより、糸井の存在そのものがツボなのだろう。モテ期がきているようで、羨ましい限りだ。
「たとえ私が嫌いだとしても、女の子の前じゃ強がるもんですよ? 男って」
「痛いもんは痛いんだよ」
「そういうところがヘタレなんですよ」
(帰りたい……未来さんに会いたくなってきた……)
ここまでくると、この後輩も桜井の差し金説が浮上してもおかしくない。
だが残念ながら、単独犯、フリーの狂人だ。
「何を言っても無駄だろうがな、始業前に一つ教えてやる」
「わぁ、ありがとうございます。メモ取りますね」
「お前が思ってるより遥かに痛いんだよ。殴られても文句は言えんし、場合によっちゃ殺されるぞ」
二度とやるなという意味を込めて、無駄だとは知りつつも忠告する。
突き放したつもりだろうが、実際のところは逆効果だ。
「絶対にやめませんよ……先輩」
(なんか独り言を言ってる……こわっ)
桜井程ではないが、後輩は並々ならぬ執着心を持っている。これまでの人生で、唯一自分に興味を示さなかった糸井に。
見下しているから、からかっているというわけではない。好きだから、自分に振り向いてほしいから、だからこそからかっている。
嫌いだから暴力を振るうわけではない。愛ゆえの暴力だ。
占いの技術を持たない人間でも、これだけは断言できる。糸井には、女難の相が出ていると。
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