第27話 一方的な相思相愛 二人目

 一ヶ月前は、想像もできなかっただろう。桜井家に帰宅することが、楽しみになるなどと。鼻歌を歌うとまではいかないが、帰りの準備をする糸井はどこか楽しげだ。

 その浮かれ気分に水を差す不届き者が現れる。


「先輩? 午前中、体調悪そうでしたね?」

「お前のせいだよ」


 上司と同じかそれ以上に話したくない相手、後輩が心配そうに声をかけてくる。

 体調を悪化させた張本人が白々しく身を案じてくるというのは、不快なものだ。

 一刻も早く立ち去ろうと、帰り支度を普段の倍以上の速度で行う。


「え? ニギニギしてから一時間は経ってましたよね?」

「あんな本気で握られたら、痛みも長引くわ。ボケっ!」


 どこまで神経を逆なですれば気が済むのだろうか。

 『残業しろよ』という上司の視線を背に受けながら、足早に事務所を後にする。

 そして、当然のように後を追う後輩。


「待ってくださいよ。女の子は歩幅が小さいんですよ? そんなだから……」

「なんでお前と帰らねばならんのだ」


 早歩きで振り切ろうと試みるが、負けじと小走りで追いかけてくる。

 なんという執念だろうか。


「あの、ホントに痛かったんですか? あれから一時間も」

「そんなに不思議か?」

「異常ですよ、そりゃ」


 異常なのは後輩ではないだろうか。


「鈍痛が続くんだよ」

「激痛じゃなくて?」

「痛いというより、苦しいと言うべきだな。とにかく着いてくるな」


 勤務中ならまだしも、なぜアフターファイブに会話をしなければならないのか。ましてや、こんな下品なトークに花を咲かせたくない。

 早歩きの速度を限界まであげると、着いていけなくなった後輩が呼び止めてきた。


「ちょっと! 後輩の話ぐらい聞いてくださいよ!」

「先輩の話を聞いてから物を言え! うすらボケっ!」


 罵声を浴びせながらも、足を止めている辺り、お人好しと言わざるをえない。

 後輩に対して非常になりきれない甘さ、これこそが厄介な女を惹きつける要素なのだろう。不幸中の幸いなのは、相手が美人二人という点だ。そこだけは運が良い。そこだけは。


「お前の可愛さは認めてやるが、性悪なところは認めん。俺のことが嫌いなら、無視すりゃいいだろうが」


 本当に救い難い男だ。わざわざ地雷原でタップダンスをするなんて、狂人以外の何者でもない。

 雉も鳴かずば撃たれまいとは、まさにこのことか。

 お喋りな性格を改めるためにも、もっと痛い目に遭ったほうがいいかもしれない。


「可愛い……? ついに認めてくれた? 見る目がない先輩が?」

「おい? 何をブツブツと……」


 いつも以上に異常な後輩を恐れつつも、心配して近づく。

 本当に底抜けのお人好しだ。これが、良い人ほど早く死ぬと言われる所以か。


「痛みですか?」

(伊丹? 出張の話か?)

「鈍痛が続いてる間、私のことでいっぱいだったんですか?」

「……怒りでいっぱいという意味では、そうかもな」


 嫌な予感がして、せっかく詰めた距離を一歩分開ける。


「どれぐらい痛めつければ、二十四時間続くんですか? 一時間ぐらい握ればいいですか?」


 絶対に近づいてはいけない。危機管理能力がなくてもわかる。これを察知できないヤツは、この歳まで生きることができない。

 もう一歩下がり、距離を取る。


「書いてなかったですよ」

「何が? 何に? 主語を言え、主語を」

「恋愛本にも書いてないテクニックですよ。痛みで愛を紡ぐなんて、こんな画期的なメソッド、私しか知りませんよ」

「おうおう、難しそうな話してるな。意外と頭がいいんだな、感心感心。おっと、そろそろ電車の時間だ」


 まくし立てた後に、駅へと向かって全力疾走する。終業後だというのに、元気があり余っているようで何よりである。若いというのはいいものだ。

 どうせ翌日会えるということもあって、追いかけてはこなかったが、電車を待っている間は生きている気がしなかったようだ。

 キョロキョロと辺りを見渡しながら乗車する姿は、まさに不審者のそれであった。


「面白半分にしちゃ趣味が悪いな。事件起こす前に指導してやったほうがいいか」


 危機管理能力が高いのか低いのか、わからない男だ。

 いっそ事件の当事者になればいい。そのほうがきっと面白いだろう。

 アレを愚弄だと解釈しているようでは、生きていけない。女難の相が出ているのだから、価値観をアップデートしたほうがいい。しないほうが面白いが。


「ただいま戻りました」

「おかえり……ん? ちょっと来て」


 命からがら帰宅した糸井だが、変化に気付いた桜井に呼び寄せられる。


「いつもより汗かいてるね」

「え? 臭いますか?」

「うん、アナタの匂いは嫌いじゃないし、むしろ好きだけど……」


 突然のカミングアウトに、妙な照れくささを覚える。


「今日の臭いは嫌いかな」


 その照れくささは、たった一言で恐怖に変わった。


「女の臭い……」

「女? ああ、アイツか」


 今朝抱き着かれた時、厳密には拷問されていた時についた匂いだろう。

 一般的には良い匂いかもしれないが、桜井からしてみれば刺激臭、悪臭の類だ。


「申し開きがあるなら聞く。聞くだけになると思うけど」

「前に話しましたっけ? 厄介な後輩がいるって」

「うん。女狐がいるって」

(女狐?)


 桜井が不機嫌なのはわかるが原因がわからない。

 ならば正直に全てを話すしかないと判断し、今朝の出来事を洗いざらい話す。

 話し初めは禍々しいオーラを出していた桜井も、話が進むにつれて態度が軟化していった。なんか知らんけど。


「大丈夫? 潰れてない?」

「潰れてたら今頃病院ですよ、はは」

「笑い事じゃない」


 心配をかけまいと愛想笑いしたのが気に障ったらしい。

 桜井表情検定を持っていない者でもわかるぐらい、不機嫌になっている。


「迂闊すぎる。私以外にそんなことさせちゃダメ」

「アナタもダメですけど……」

「私はいいの。共有財産なんだから」

(いや、俺の私物だよ。何があっても俺の物だよ)


 怒る点が少しズレている気もするが、彼女なりに心配しているのだろう。

 今まで当然のように食していたパンやコンビニ弁当を、胃が受け付けないほど依存しているのだから、当然と言えば当然だ。


「明日からお仕事いける? 後輩怖くない?」

「怖いですけど、こんなしょうもない理由で退職できませんよ」

「ふふっ、少しは男らしくなったね」

(俺を褒めた? 未来さんが?)


 成長を喜んでいるようにも見えるし、寂しがっているようにも見える。

 複雑な乙女心というヤツだろうか。自分の成長を棚にあげているのが、気にくわないが。


「負けちゃダメだよ? 女の子に」

(いつもアンタに負けてんだけど……)


 この激励が力に……なんて展開は訪れない。

 この日を境に、後輩に怯える日々が続く糸井。

 睡眠不足なのもあって、日に日に精神が参っていく。目に見えて。


(あれから特にアクションを起こしてこない……平和は平和なんだが、未処理の爆弾抱えてるみてーで、気分が悪い……)


 朝の挨拶や、業務を遂行するための必要最低限の会話。後輩と口を利くのは、それぐらいある。

 これが定年まで続く保証があるなら、安心して仕事に勤しめる。だがどうしても、嵐の前の静けさに思えてならない。


(同棲し始めは職場に安らぎを覚え、桜井家に居心地の悪さを覚えていた。今ではすっかり逆転して、職場に行くのが億劫で仕方がない)


 どうしてこうなったのだろうか。

 あの新人が全て悪いのだろうか。

 それとも……。


(俺、依存しちまってるのかな。未来さんに)

「明君、皿洗いなんて明日でいいから、ゲームしようよ」

(いや、依存してるのは未来さんだ。俺は仕方なく同棲してるだけだ)

「明君?」

「はーい、今行きまーす」


 明らかに共依存だ。

 糸井の独身人生並びにサラリーマン人生。共に終わりの時が近づいている。

 なんとも皮肉な話だ。終わりの時を迎えると同時に、当初の目論見、悲願が達成されるのだから。

 そう、平凡な日常からの脱却。人生を賭けてまで望んだものが手に入るのだ。

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