第25話 奈落一歩手前

「はい、今月分」

「いや、だからこんな大金……って、前より多くないですか?」


 同棲から一ヶ月が過ぎたため、追加の金を渡される。

 厚さは少なく見積もっても前回の一・五倍。夏のボーナスを上回る金額だ。


「お金、必要でしょ?」

「そりゃあればあるほどいいですけど……前回のも余ってますし」

「いいから受け取って。競馬で負けちゃったんでしょ?」


 ナチュラルにトラウマを掘り返され、精神的なダメージを受ける。

 薄給の彼にとっては耐えがたいトラウマで、コンビニに寄る際も新聞コーナーは絶対に見ないことにしているほどだ。競馬新聞が目に入れば、その場で憤死する恐れがある。


(ただでさえ最近仕事が辛いのに、これ受け取ったら俺は……仕事なんて……)


 憎き後輩の顔が脳裏をよぎる。

 問題を起こした時に毎回糸井を身代わりにするくせに、感謝どころかナメた態度で接してくる後輩の顔が。


(この前なんかすれ違いざまに股間を叩かれたんだよな……本人は事故だとかほざいてたけど、絶対わざとだ)


 これもトラウマの一つだ。ここまで頻繁に生まれると、安っぽく見えてくる。

 当然、まともな謝罪は無し。むしろ「男のくせに大げさなんですけど」と、煽ってきたぐらいだ。怒ったところで周りは後輩の味方をするに決まっているので、糸井は「全然痛くないけど?」みたいな顔で、その場を立ち去った。

 カッコ良いのかカッコ悪いのかわからない。


「どうしたの? 暗い顔」


 心配そうに糸井の顔を覗き込む。

 一般人から見れば一ミリも心配していなさそうな顔だが、糸井にはわかる。身を案じてくれていると。


(最初の頃は意思疎通できなかったけど、日に日にわかるようになってきたし……仕事よりも、この人の世話をするほうが……)


 よろしくない。

 思考回路が完全に、よろしくない方向に向かっている。

 本人の中ではわずかに揺れている程度だろうが、実際は大きく傾いている。

 背中を一押しされれば落ちる段階まで来ているのだが、自覚症状は無し。


「いえ、仕事辛いなぁって」


 誤魔化す糸井。いや、誤魔化しているつもりの糸井。

 心の奥底では「じゃあ仕事辞めて、私のもとに永久就職しなよ」と、言ってもらえることを期待している。


「通勤時間が延びたんだよね。ごめんね」

「いえ、未来さんのせいでは……」


 いや、どう考えても桜井のせいだ。これに関しては。


「ほら、このお金で遊んできなよ。今日は占いの仕事長くなる予定だから、遠くに行ってもいいよ」


 悪魔の甘言とでも言うべきだろうか。

 葛藤こそあるものの、誘惑には勝てずにお金を受け取る。もっとも、ここで粘ったところで最終的には押し付けられるのだが。


「エッチなお店はダメだよ」

「はは、考えもしませんでしたよ」


 糸井からしてみれば、軽いジョークに対する軽い返答だったのだが、桜井に思い切り刺さったらしい。そっぽを向いて、赤面した顔を隠している。


「私しか見えてないんだね」

「……? ええ」


 何を言ったか聞き取れなかったが、適当に肯定する。

 糸井も随分変わったようだ。以前の糸井ならば、言質を取られることを恐れて、軽はずみな発言は避けていただろうに。


「じゃあ行ってくる……外出するなら鍵閉めてね」

「お気をつけて」


 もう完全に夫婦のやりとりである。


(っていうか占いって結局どうなったんだろ。リセマラってことは、別の結果が出てるんだよな? まあいいか)


 占いのことをふと思い出したが深く考えず、家事にとりかかる。

 当初は、休日に他人の家で家事をすることに不満を抱いていたが、今では自宅で家事をする時と同じテンションだ。いや、むしろ嬉々としてこなしている。


「ああもう、なんでパンティ裏返しなんだよ。靴下はまだわかるけど……」


 洗濯に対する嫌悪感や下心も皆無。当初は申し訳程度のスケベ心と、他人の下着を触ることに対する嫌悪感があったはずなのだが。

 今でも忘れない。「私の下着を洗濯できて幸せだね。このスケベ」と言われて、危うく殴りそうになったことを。


「あー! また食べかけのお菓子を冷蔵庫に入れてぇ!」


 歯形のついたシュークリームをゴミ箱に投げ捨てる。

 一回目は「勝手に捨てたの? 潰す」と凄まれたが、「一度口をつけたものは危ないんです。お腹を壊すのはアナタですよ?」と説得して以来、クレームが入ることはなくなった。

 身を案じる糸井にときめくという、いつものお手軽好感度上昇イベントなのだが、勿論糸井は気付いていない。気付かないところも含めてのイベントだ。


「コーヒー飲んだら水につけろって、あれほど言ったのに……」


 文句を言いながらも、コップのシミを指で拭き取る。

 ここまでくると、恋愛感情がないのが逆に自然な気がしてくる。

 女性というより、手間のかかる妹扱いしているのではないだろうか。


「休憩がてら、久々に格ゲーで初心者ボコるか……ああもう。ソフト、バラバラに入れてるじゃんかよ」


 ダウンロード版が普及した現代では減っているかもしれないが、一昔前ならわりとよくある現象ではないだろうか。迷惑だから国で禁止すべき。

 少し前に、ソフト専用の収納ケースをプレゼントしたのだが「ありがとう。でも、パッケージが好きだから」と言って、ケースを使ってくれないのだ。


「好きならちゃんと使ってよ……ましてや俺のソフトだぞ」


 不満を述べつつも、心なしか優しい声色だ。完全に愛おしいものに対するリアクションなのだが、気付いているのだろうか。いや、気付いていない。

 桜井が最近プレイしていたゲームを思い返しながら、片っ端からパッケージを開いていく。誰も幸せにならない作業、時間だ。にも関わらず、どこか嬉しそうな糸井。

 年下好きなのは、この面倒見の良さありきだろうか。


「そういや遠出してもいいって言ってたよなぁ。許可制の意味もわからんけど」


 対戦のマッチング中に、外出先の候補をいくつか思い浮かべる。

 以前は「金がないからゲームしてよ」と、金がないことを言い訳に出不精になっていた糸井だが、いざ金を手にしても外出する気が起きない。

 元よりそういう感じの気質なのか、それとも桜井の家を居心地の良い場所と捉えているのか。両方かもしれないが、どちらかといえば後者に傾いているように見える。


「……そういや未来さんとも何度かやったな、これ」


 対戦相手が弱いせいか、呑気に過去を思い返す。なんて失礼なヤツだろうか。


「手加減したらマジギレされたなぁ……」


 本気でボコボコにしたら、それはそれでマジギレ……などということは起こらなかった。意外なことに。


「必死に練習する姿は好感持てたなぁ。惚れはせんけど」


 対戦中に桜井のことを考えている時点で惚れている気もするが、本人が認めない以上は何も言えない。

 認めようが、認めまいが、どっちにしろ結婚は確定しているのでどうでもいいが。


「そういや恋愛シミュレーションもやってたな」


 連戦する気が起こらず、パッケージの山を漁りだす。


「これかな? ええっと……『特別枠で女子校に転入したらハーレムになった件』だって? はは、なんだよこれ。ウケる」


 学園物だというのも面白いが、ハーレム物だというのもさらに面白い。

 なんだったら、桜井が恋愛シミュレーションをやっていること自体が面白い。


「恋愛感情なんてあんのかねぇ……未来さんが惚れるような男がいたら、一目でいいから見てみてぇな」


 その願望は既に叶っている。なんなら毎日叶っている。

 今朝も歯磨きの際に、その願いを叶えている。毎日願いが叶って、羨ましい限りである。この果報者。

 その後も、家事に読書にゲームと、休日を満喫したわけだが、何かにつけて桜井のことを思い浮かべていた。この男、完全に首ったけである。


「ただいま」

「あっ、お帰りなさい。言ってくだされば、机とか運びましたのに」

「いい。それよりマッサージして」

「言われなくとも」


 極めつけは、これだ。桜井が帰宅するや否や、露骨に元気になっている。

 媚び売りのつもりだろうが、完全に妻が帰ってきた時の夫だ。

 〝働いたら負け〟という格言は、今の糸井にこそ相応しい。この果報者。

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