第23話 人権引換券贈与
同棲を強要されてから三週間。
言い換えると、睡眠時間が減ってから三週間である。
「眠い……」
欠伸を噛み殺しながら、SF小説を読み進める糸井。
いや、読み進めるという表現は正確ではないかもしれない。
「これメモ取りながらじゃないと無理じゃね?」
聞きなれない単語がとめどなく出てくるせいで、話が全く頭に入ってこない。
桜井に薦められた小説だが、読書に慣れていない人間が読むには少々難易度が高いらしく、割いた時間に対して読書量が少なすぎる。
「感想聞かれても『難しかったです』としか言えねえよ……」
好きな物を好きな人と共有したいという、桜井の気持ちは痛いほどわかる。彼女に限らず、大半の人間は同じ考え方だろう。
だが、彼女は一つ履き違えている。
好きな物というのは、お互いに好きな物であるべきだ。好きになるように強要するのは、よろしくない。ましてや苦手な人間に薦めるのは、あってはならないことだ。
「しっかし、ゲームといい、本といい……どんだけ金持ってんだよ」
雑に積み上げられたゲームソフト、本棚に入りきらず机に積み上げられた本、それらを見ながらひとりごちる。
「しかも増えてるし、ゲーム」
正確な数は覚えていないが、確実にソフトの数が増えている。大きめの本棚でも一段は優に埋まるのではないだろうか。
いくら特殊能力を持っているとはいえ、その若さでよくここまで稼げるものだと、嫉妬と感心が同時にくる。
「もう無理……寝よ」
睡眠不足の状態で難しい本など読めるはずがない。そもそも寝不足なのは桜井のせいだ。俺は悪くない。
そう自分に言い聞かせ、ソファーで横になる。
(未来さんが帰ってくるまで三時間はあるな……二時間半は寝れるな……)
最後の気力を振り絞ってアラームをセットし、眠りにつく。
寝つきが良い方ではないが、十分足らずで意識を失った。
無理もない。この三週間、ろくに睡眠を取らずに働き詰めだったのだから。
せめて休日に睡眠を取れればいいのだが、桜井よりも早く起床して朝食を作るミッションがあるため、それも不可能。
桜井が仕事に行っている間に睡眠を取ろうにも、本を読めという指示を受けているため、それもままならない。
ゆえに今も寝ている余裕はないのだが、起きている余裕もない。
健康状態は基本的に数値化できないのでわかりづらいが、病気になる一歩手前の睡眠不足と言っても過言ではない。大目玉を食らおうとも、ここは仮眠が正解だろう。
「んん……」
寝心地が悪いせいか、アラームよりも早く目が覚める。
寝ぼけまなこで時間を確認しようとするが、体が上手く動かない。
「ん? んん?」
体に何かが巻き付いている。そして、妙に良い匂いがする。
混乱しているうちに、徐々に覚醒状態に入っていく。
「み、未来さん?」
占いに行っているはずの桜井が、糸井の胸板に顔を埋めて睡眠を取っていた。
ご丁寧に糸井の腰に腕をまわしているため、起き上がることができない。ついでに言うと、足も絡められている。
狭いソファーなので、下手に動けば床に落としてしまう恐れもある。糸井に非がなくとも、折檻不可避だろう。
(何やってんだコイツ!? 理解できんが、ピンチなのは理解できる!)
起こさないように、絡みついている腕と足を外そうと試みるが、ソファーと桜井に挟まれているため、満足に身動きが取れない。
桜井が自然に目覚めるまで、狸寝入りする他ないのだろうか。
(コイツの息が腹に当たってゾワゾワする……っていうか息苦しくないのか?)
苦しみに耐えつつ、桜井が目覚めるまで狸寝入りを決め込もうと目をつぶる。
羨ましいのか気の毒なのかわからない体勢のまま、十分ほど経過したその時。
「きゃっ!?」
糸井が仮眠前にセットしたアラームが鳴り響き、桜井が短い悲鳴をあげる。
「危ない!」
アラームよりも桜井の悲鳴にビビりつつも、ソファーから落ちそうになった桜井を抱きしめる。
(……なんだ、この感じ?)
ソファーから落ちた桜井に怒られることを恐れたのか、それとも単純に桜井の身を案じたのか。
自分の行動、心情がわからずに当惑する糸井。
一方、桜井も当惑している。
アラームが急に鳴ったかと思えば、糸井に抱きしめられ、状況に頭が追い付かず混乱しているようだ。
「あ、アラームうるさいんで止めますね」
桜井を踏まないようにソファーから降りて、アラームを止める。
「明君……」
「あ、いや、その……」
アラームのおかげで膠着状態からは救われたが、また別の危機に陥ってしまったようだ。
嫌いなアラーム音で睡眠を妨害した件か、急に抱きしめた件か。どちらにしろ、殺される。生まれてきたことを後悔するような殺し方をされる。
そう判断した時、既に体は土下座の体勢を取っていた。
「明君? 何してんの?」
別に望んでいない土下座を披露され、戸惑う桜井。
冷静になれば、桜井が怒っていないことに気付けたかもしれない。だが、糸井は助かりたいという一心で、額をカーペットにこすりつける。
「何を謝ってるの?」
純粋な疑問をぶつけられただけなのだが、糸井は詰問だと受け取ってしまい、汗をかいている。人の家のカーペットにこすりつけている額に。
(こ、これは噂の……女子特有の『私がなんで怒ってるかわかる?』ってヤツか? 本気で怒っているってことか……)
勘弁してほしい。
桜井は仕方ないとしても、糸井まで話が通じなくなったら終わりだ。収集がつかなくなる。
「下心はなかったんです」
「……?」
セクハラで槍玉に挙げられているオジさんみたいな弁解を始める糸井だが、桜井はより困惑するのみ。
(む、無言? ガチで怒ってるだろ、これ。顔をあげるのが怖い……)
返答に悩んでいるだけなのだが、無言の圧力だと受け取り、汗の量が増える。
「なんでも、なんでもしますから」
架空のプレッシャーに押しつぶされ、諸刃の剣とも言える切り札を切る糸井。致命的に頭が悪い。
「今なんでもって……」
思いがけず最大の言質を取ってしまい、歓喜する桜井。
その浮かれた声は、糸井の耳には死神の足音にしか聞こえない。
(や、やっちまった……保険金かけてトラックに突っ込まされる……)
考えうる限り最悪の終焉を想像し、震えあがる。
まだわからないのだろうか? 桜井が何を望んでいるのかを。
「じゃあ、いざって時のために取っておこうかな。その権利」
(あえて温存することで、逆らえないようにする気か……悪魔め)
彼は何を言っているのだろうか、今更。言質などなくとも、元々逆らえないというのに。
この日からしばらく、桜井の上機嫌が続いた。こころなしか、笑顔も増えた。
不気味ではあるが不機嫌よりはいいと、呑気に構える糸井。
桜井の中では、結婚どころか子供の名前を考える段階に入っているのだが、糸井がそれを知る由はない。
「私のこと好きすぎるでしょ、明君」
「ん? すみません、何かおっしゃいましたか?」
「なんにも」
「……?」
言質を取ったというのも大きいが、何より糸井の方から抱きしめてきたというのが嬉しかったらしい。
限りなくゼロに近いが、嫌われている可能性が無きにしも非ず。そう考えていたようだが、ソファーから落ちそうなところを助けられ、『百パーセント私のことが好き』と、確信したようだ。確信というより、誤認な気もするが。
「明日の朝食はパンでいいよ。弁当もいい」
(えっ!? 平日の朝でも手の込んだ朝食と弁当を要求するこの女が、手抜きを許可してくれるってのか!?)
「朝早いもんね。たまにはゆっくりしていいよ」
「あ、ありがとうございます……」
これを慈悲だと受け取るあたり、もう終わりなのかもしれない。
こんなもの、DV彼氏が気まぐれに見せる優しさと変わらないというのに。
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