第21話 ヒモの素質

「いや、受け取れませんって」


 恐れ多くも、桜井が差し出したものを拒否する糸井。

 命知らずな行為だが、無理もないだろう。


「なんで? 私のことが嫌いだから?」

「そうじゃなくて、三十万も受け取れるわけないでしょう」


 仕事から戻るや否や、月収以上の金を突然差し出されたら、誰だって断る。


「そもそもなんですか? そのお金は」

「家賃とか光熱費とか、色々無駄になってるでしょ? その補填」


 スジは通っているが、額が途方もない。

 言うまでもないが、一ヶ月分の支出を大きく上回っている。不気味すぎて、やすやすと受け取れるはずがない。


「そんな良い家に住んでませんって」

「家事とかもしてもらってるし……」


 理屈はわかるが、それならば家事代行サービスを使った方が安上がりだろう。

 桜井と暮らす精神的な負担を差し引いても、三十万は高額だ。代わりたいかと言われたら、代わりたくないが。


「たしかに家事してますけど、これって占いリセマラのお礼でしょう?」

「え……ああ、うん」

(え? 今の反応なんなん?)

「とにかく受け取って。ここで生活する上で、色々お金使うことあると思うから」


 お互いに考えの相違があるようだが、無理矢理押し切ろうとする桜井。


(正直に言うと欲しい……安月給だし……)


 差し出される大金を受け取るべきか否か、真剣に悩み始める糸井。

 臨時収入としては格別だが、これを受け取ると何かが終わる、と糸井の直感が囁いている。


(これを受け取ったらヤバい関係にならんか? 現時点で意味不明な関係だが)

「受け取らないと玉を蹴る」

「受け取ります!」


 葛藤こそあったものの、脅し一つであっさりと折れる糸井。

 桜井の性格的に断れないのは確定しているので、痛い目に遭う前に受け取るというのは正解なのだが、それでもモヤモヤしたものが残る。


(反社会的勢力からお金受け取った気分だ……)


 もしかすると、それよりも危険な金かもしれない。

 ヤクザは超能力なんて使わないのだから。


「それより早くコーヒー淹れて。あとお風呂沸かして」

「風呂掃除は出社前に済ませましたが……」

「いいから沸かして」


 どこまで甘えるつもりなのだろうか。大昔ならまだしも、現代なら指一本で風呂を沸かせられるというのに。

 言うまでもないが、桜井もやろうと思えばそれぐらいできる。できるが、糸井に尽くしてもらいたいのだ。

 自分は金を渡し、糸井は尽くす。この関係を望んでいるのだ。


「入りましたよ、コーヒー」

「手が塞がってる。飲ませて」


 読書中だから飲ませろと指示されるが、この指示に従ってもいいものだろうか。

 アイスコーヒーならまだしも、ホットコーヒーを飲ませるのはいかがなものか。


「あの、ホットですよ?」

「知ってる。集中してるから、話しかけないで」


 念押しした以上、自分には責任がないはず。

 そう信じて、カップを桜井の唇に近づける。


「あつっ!」

(そりゃそうだろ……)


 笑いをこらえながら、カップを机に置く。

 熱さによる反動でコーヒーをこぼさなかっただけ御の字だろう。


「潰す」


 恐ろしい宣言と共に、半ギレで立ち上がる桜井。


「ま、待ってくださいよ。飲ませろってアナタが」

「なんでフーフーしてくれないの?」

(いや、できんて……ていうか嫌だろ、アンタとしても)


 糸井が常識知らずみたいな言い方だが、どう考えても桜井の指示に問題がある。

 だが、指示よりも性格に問題があるので、制裁は確定している。


「女の子の顔に火傷を負わせようとした罪。相当重たいよ」

「話し合いましょう、ね?」

「考えが甘い」


 絶対に許さないと言わんばかりの表情で、じりじりとにじり寄る。

 動きの鈍さが、逆に恐怖を煽る。


「とりあえず冷やしましょうよ、ね? ね?」


 命乞いをしながら冷蔵庫に向かう糸井だが、辿り着く前に首根っこを掴まれる。


「火傷してないからいい。それより誠意を見せて」

「せ、誠意?」


 ドスとまな板が脳裏をよぎり縮こまる糸井。

 任侠映画の見過ぎではないだろうか。


「言っとくけど、昨日の件も怒ってる」

「昨日……?」


 買い物に付き合わされ、食ハラを受け、興味もない本を読まされ、一日中振り回され続けたわけだが、どこに落ち度があったというのか。


「その気にさせといて、結局ソファーで寝た」

「その気……?」


 昨日の時点で、桜井の中では恋人関係になっている。

 昨晩から同衾する予定だったのに、待てど暮らせど、糸井が寝室に訪れることはなかった。当然だ。そんな予定など知らない糸井は、ソファーで睡眠を取っていたのだから。


「おかげで寝不足」

(……? 俺が出社する時、まだ寝てたくせに? っていうか俺のせい?)

「ヘタレなのは知ってたけど、さすがにありえない」

(え? ソファーで寝るのは根性あるって言ってなかったっけ?)


 理由はわからないが、本気で怒られているということぐらいはわかる。

 どうすれば機嫌を取れるのか。どうすれば被害を最小限に抑えられるか。

 仕事で疲れ切った脳みそをフル回転させて、逃れる方法を模索する。


「……怒った顔も可愛いですね」


 とりあえず褒めればなんとかなる。これまでの付き合いで得た、浅ましい知見だ。


「ん……それだけ?」


 浅ましいが、正解に違いはない。

 一発で気持ち良くなり、追加の褒め言葉を要求している。


「仕事中、アナタに会えなくて寂しかったですよ」


 勿論、嘘だ。仕事中は、ボーナス支給日以上にご機嫌だったので、周りから気持ち悪がられたほどだ。

 急ぎの仕事があるわけでもないのに残業し、電車を一本遅らせてまで喫茶店でのんびりしてから帰宅したくらいだ。

 

「へぇ……そうなんだ」


 この場を凌ぐだけならば、最良の発言だ。だが、所詮は一時しのぎ。

 一時しのぎというのは、いずれツケが回ってくる。言ってしまえば問題の先送りなのだから。


「仕事、辛いね」

「……? ええ、行かなくていいなら行きませんよ」

「そう……」


 三十万円を受け取った時点で察してほしいものだ。仕事を辞めさせようとしていることを。

 完全に言質を取られてしまったが、糸井は全く気付いておらず、桜井の機嫌が戻ったことを喜ぶのみ。


「許してあげる。さ、コーヒーを冷まして」

「ありがとうございます」


 再び機嫌を損ねても困るので、言われるがままコーヒーを息で冷ます。

 命令に従っているにすぎないのだが、桜井の目には〝彼女に尽くす男〟として映っている。認知の歪みにも限度がある。


「じゃあ次はお風呂の準備して、肩を揉んで」

「わかりました」


 仕事を終えたばかりの人間に対する気遣いがまるでない。

 現時点でこれなら、結婚後はどうなるのだろうか。


(こき使われることに怒りとか屈辱とか感じないあたり、仕事よりヒモのほうが向いてんのかな……俺)


 先ほどの三十万円が脳裏をよぎり、思考がよろしくない方向に向き始める。

 たしかに単純な給料や生活水準を考えれば、仕事よりもいいかもしれない。だが、桜井に全てを委ねるというのは精神衛生上よろしくない。

 桜井の身にもしものことがあった時や、桜井に飽きられた時、糸井の人生は終了する。一年、二年ならば再就職も可能だろうが、十年後に捨てられた場合は厳しい。


(二十半ばでアーリーリタイアか……ヒモをアーリーリタイアって呼んでいいのかわからんけど、勝ち組っちゃ勝ち組だよな……)


 若さゆえか、どうにも考えが甘い。大金を急に得たとはいえ、先が見えていない。

 専業主婦や子供、自力で食えない人間全員に言えることだが、収入源を持たない人間は、持つ人間に命を握られている。

 普通の人間ならば、多少のことで見殺しにはしない。妻と喧嘩したからといって、家に金を入れない男はいない。子供が口答えしたからといって、家から追い出して分籍する親はいない。

 だが、あいにく桜井は普通じゃない。少なくとも、命を軽々に預けていい人間ではない。ヒモが天職だと豪語できる人間じゃないと、桜井の夫は務まらないだろう。


「チョコ食べさせて、なぜなら……」

「手がふさがってるからですね」

「うん」


 糸井は多分務まる。結婚おめでとう。

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