第20話 言質
(死ぬほど疲れた……仕事よりしんどい……)
買い物を終え、ようやく桜井の家に辿り着く。
玄関で倒れ込みたいという欲求を抑えて、部屋まで荷物を運ぶ。
「荷物の仕分けは後でいいよ。冷蔵庫にジュース入ってるから、休憩してて」
「あ、ありがとうございます」
雑用を覚悟していた糸井は、心の中で歓喜の雄叫びをあげる。声に出していたら、近隣住民に事件だと勘違いされかねないほどの雄叫びだ。
「入ってこないでね。あ、私の分のジュースも用意しといて。氷多めで」
「わかりました」
熊のぬいぐるみだけ持って自室に向かう桜井を見送った後、大の字で床に寝っ転がった。
(子供の頃にオカンの買い物に付き合った時も、疲労感すごかったなぁ……)
天井を見つめながら、ノスタルジーに浸る。どっちかと言えばトラウマの再来に見えるが、喉元過ぎればなんとやらだ。
(彼女作るとしたら、ワガママを言わない思いやりのある子にしよ)
この男は、何を意味の分からないことを考えているのだろうか。
桜井以外と交際できる未来など、とっくの昔に消滅したというのに。他ならぬ自分自身の言動によって。
(しっかし、ぬいぐるみ一つに七千八百円もかけたってのに、めっちゃ嬉しそうだったなぁ……どんだけ好きなんだよ……そのわりにゃ、殺風景な家だけど)
糸井が取って、糸井の手から受け取ったぬいぐるみだからこその喜びなのだが、糸井は〝金銭感覚の狂ったぬいぐるみ好き〟だと解釈している。
桜井の人間性に問題がなければ、ネットで叩かれるタイプの主人公だろう。
(ん? なんか聞こえるな?)
桜井の自室から、クッションのようなものを叩く音が聞こえる。
プレゼントをもらった喜びのあまり、ベッドでぬいぐるみを抱きしめながら足をジタバタさせている音だ。
(え? 殴ってる? 熊さんを殴ってる?)
そんな微笑ましい乙女の所作も、何も知らない糸井にとっては恐怖でしかない。
(氷多めだったよな。えっと、甘い物とか炭酸が好きなんだっけ)
パンチの矛先が自分に向いてはかなわんと、急いでジュースを用意する。
誤解するのも無理はないが、もう少し女性扱いするべきではないだろうか。惚れさせた男の責務として。
「じゃあ、読書タイムにしようか」
悶え終えた桜井が、何事もなかったかのように部屋に戻ってきた。
(ん? 髪にぬいぐるみの毛が……頭突きしてたのか?)
失礼な推理をしつつ、無意識に桜井の髪に手を伸ばす。
急に接吻を求められたと勘違いして、内心パニックになりつつも目を閉じてキス待ち顔になる。
(あっ、やべ……勝手に髪触っちまった……殺される……)
攻撃に備えて防御態勢をとるも、桜井は一向に動く気配を見せない。とはいえ、糸井も動くに動けない。急に殴られる可能性があるからだ。
桜井からすれば、糸井が一向にキスをしてこないという状況だ。とはいえ、桜井も動くに動けない。急にキスされる可能性があるからだ。
一撃必殺の流派同士で闘っているかのような膠着状態が続く。
時が止まったかのように静穏な空間。静音を売りにしてるエアコンがけたたましく
感じる程に、静まり返っている。
「なんで? フェイント?」
氷の溶ける音によって金縛りから解き放たれた桜井が、遠回しにキスを催促する。
言うまでもないが、糸井には通じない。
当然だ。桜井のキス待ち顔は糸井からすれば、攻撃前の精神統一にしか見えないのだから。
「えっと、髪の毛にぬいぐるみの毛みたいなのが……」
先ほど取り除いた毛を桜井の目の前に持っていき、弁明する。考え無しに髪を触ったわけではなく、ゴミを取ろうとしただけ。善意による行動なんだと。
五秒ほど間をおいた後に、全てを理解して背を向ける桜井。
勘違いに気付いて赤面しているだけなのだが、糸井は『ソバットか? カンガルーキックか? オーバーヘッドキックか?』などと、的外れな警戒をしている。
「責任取って……」
キス待ち顔を見られたこと、辱められたこと、それらの責任を取れと主張する。
責任の取りかたは言うまでもなく結婚だが、当然糸井は……。
(髪触った責任……? 坊主にしろってことか? それとも……エンコ詰め?)
振れ幅の大きい私刑を予想し、怯えている。
お互いに心が読めないので仕方ないと言えば仕方ないのだが、ここまでくるとそっち系の精神病に見えてくる。そのうち自分の首をかきむしるのではないだろうか。
「あの、俺には仕事が……」
坊主もエンコ詰めも仕事に支障が出るので勘弁してくれの意。坊主に関しては問題ない気もするが。
「大丈夫」
会社なんて行かなくても養ってあげるから大人しく結婚しろの意。漢字三文字に意味を込めすぎだろう。
「わ、わかりました。受け入れます」
比較的軽い罰だと思い込んで、受け入れることを決意する糸井。致命的に頭が悪い。利用規約を読まずに同意するタイプに違いない。結婚おめでとう。
「……ワガママだけど? 私」
(え? 知ってるけど?)
言質を取ったにも関わらず、念押しする桜井。
相思相愛だと思い込んでいるとはいえ、ここまであっさり事が運ぶとは思っていなかったのだろう。
「ベッド買っとけばよかったかな」
既に同衾する気満々の桜井は、ダブルベッドを購入すべきだったと、大金を積んででも今日中に配送させるべきだったと、心底後悔する。
「別になくても……」
ダブルベッドは不要だと返す糸井。
ソファーで寝るから問題ないという意味なのだが、このタイミングでその返答はまずい。非常にまずい。
「意外と大胆なんだね」
シングルベッドでの同衾を望んでいると解釈されてもおかしくないのだから。
(独特な言葉選びだな。飯と服まで奢ってもらって、ベッドまで買って貰ったら、返しきれないって思っただけなんだが)
本当に呑気なものだ。
桜井の中では完全に恋人関係になっており、今夜から同衾、ゆくゆくは退職して同棲するというプランまで立てられているというのに。
「根性無しだと思ってたけど、意外とやるんだね」
(……? ソファーで寝るのって、そんなに根性必要か?)
「私も気合入れないと」
(あれ? なんかヤバそう)
なんとなく嫌な気配を感じて、警戒態勢を取る。
「あの、今日のところは、とりあえず自宅に……」
「は?」
顔を背けていた桜井が、物凄い勢いで糸井のほうを振り向く。
桜井の表情を読み取るスキルがなくとも、一目でわかるだろう。烈火のごとく憤慨していると。
「えっと、明日仕事ですし……スーツとかカバンとか取りに帰らないと……」
「さっきの言いかたは、帰ってこない言いかただった」
「言い間違いです。すぐに戻ってきますよ」
最低でも平日は自宅で過ごす予定だったが、命の危機を感じて変更する。
「よかった」
無表情キャラはどこへやら、安堵の表情を浮かべる桜井。
心を許した相手、恋人にだけ見せる特別な表情だ。明確な変化だが、糸井はそれどころじゃない。
「あの? どこ触って……」
局部、急所に手を置かれているのだから、表情など気にする余裕などない。
「ん? 帰るとかほざいたら、思いっきり握ってやろうかと」
(よかった……あのまま自分の意志を貫いてたら死んでた……)
言っておくが、決して脅しではない。
自分の脆弱な握力なら、本気で握っても潰れることはない。ならば、お仕置きの手段としては最良だ。という恐ろしいロジックが完成している。
「じゃあ、早く行ってきて。そこまで遠くないし、すぐ戻ってこれるでしょ」
(そこまで遠くない? なんでそれを……あっ、まさか……)
そう、そのまさかである。
昨晩、免許証を見られた時に住所をチェックされていたのだ。
絶対に逃げられないと悟り、落胆する。
「早く行ったら?」
「いっ」
パシッと軽く局部を叩かれ、腰を浮かせる糸井。
その滑稽な姿がよほど面白かったのか、何度も手の甲で叩く。人の心はないのだろうか。
「痛いですよ、未来さん」
「私を驚かせた罰。帰るとか言い出すから、本当に驚いた」
これ以上叩かれてはかなわんと、逃げ出すように家を出る。
このまま逃げられたら幸せなのだろうが、住所を知られている以上はどうしようもない。そもそも占いの件がまだ解決していない。
もっとも、占いなんてもはやどうでもいい段階まできているわけだが……。
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