第18話 口説かれ妄想
年々増えていくハラスメント。
いや、その表現は不適切だ。
厳密に言うなら『ハラスメントの種類が年々増えている』だろうか。
「男なんだから、私より多く食べて」
(いや、お前食べすぎだって……)
糸井が現在受けているのは食ハラ。
膨大な量の食事を強要するという、善意に見せかけたハラスメントだ。
加齢のせいであまり食べられなくなった自分の分も食べてほしいという、身勝手の極みだ。善意に間違いはないのだが、ありがた迷惑と言わざるを得ない。
なお、古い会社だとハナから嫌がらせ目的で行われることも多い。
「俺に気にせず食べてくださいよ」
「私が大食いだと思われる。女の子に恥をかかせないで」
(人の目を気にするタマかよ……)
現在フードコートで食事を取っているのだが、桜井は細身のわりに健啖家らしく、軽く糸井の倍は注文している。
乙女心としては、男に多く食べてほしいらしい。自分より大きな顔の女性と写真を撮って、自分を小顔に見せるのと同じメソッドだろうか。
なんにせよ、悪意ではない。尚のことタチが悪い気もするが。
「せっかく奢ってあげてるんだから、嬉しそうにしたら?」
「う、嬉しいです。ありがとうございます」
奢り、タダ飯というのは一見魅力的だが、残すことができないという意味では辛いものがある。
ファーストフードの雑な味の濃さは、空腹の時にはありがたい。だが、満腹時は脅威となりうる。
味覚が、痛覚の代わりに体に警告を与えている。そんな感覚に抗い、必死にファーストフードを胃袋に詰め込む。
「そんな無理矢理ジュースで流し込んで、美味しいの?」
(美味しくねぇよ! 噛む余裕がないんだよ!)
栄養のある食べ物ならまだしも、不健康な食べ物を無理矢理詰め込むことになんの意味があるのだろうか。
「じゃあそろそろ行きましょう」
「きゅ、休憩をください」
吐き気をこらえながら、休憩を要求する。
桜井に要求するのはリスキーだが、この際仕方ない。今歩けば確実に吐くという確信があるのだから。
「休日だよ? いつまでも席を使ってたら迷惑」
(お前がマナーを語るな! 俺も迷惑してんだよ!)
「五分だけね?」
あまりにも短い時間設定をしたかと思えば、吐かないように呼吸を整える糸井を黙って見つめる。
動けるのであれば、いっそのこと一人で買い物に行ってほしい。そんなことを考えながら、根性で吐き気を抑える。
(波がある……平気な時と吐きそうな時が交互にくる……今、腹を押されたらマーライオン確定だ)
回復するまで、少なく見積もっても三十分。
五分はあまりにも短すぎる、人の痛みや苦しみを知らない人間の設定だ。
会話で時間を稼ぎたいところだが、苦しみのあまり話題が全く思い浮かばない。
「アナタは読書とかする?」
渡りに船とはこのことか。
桜井のほうから糸井に話を振ってきた。
いまいち思考が回らないが、ここは乗るしかない。
「社会人になってからは読む時間がないですね。自己啓発本とかは何冊か適当に読みましたけど」
成人前から大して本を読んでいないが、なんとなく気恥ずかしいので誤魔化す。
自己啓発本を何冊か読んだと言っているが、実際に読んだのは、たったの一冊だけ。その一冊さえも、読了していない。
この話題は、糸井が乗るには荒波すぎる。
「あんなの読むだけ無駄。大抵は筆者の成功自慢とか、ネットで適当に拾った情報を繋ぎ合わせたゴミだから」
大きく外してはいないが、偏った見解だろう。
だが、糸井としてはありがたい。食いつかれるよりも、ネガキャンをしてくれたほうが乗りやすいのだから。
「ええ、そうなんですよね。さすが未来さん、本質を見抜いてますね」
「ふふっ」
雑な称賛だが、人に褒められる経験が少ない桜井は、露骨に機嫌が良くなる。
過度な食事で頭がおかしくなっているのか、糸井は不覚にも愛おしさを覚えた。
絶対に覚えてはいけない感情なのだが、男なんてこんなものなのかもしれない。
「何冊も自己啓発本を買うアナタとは違うからね」
その次は殺意を覚えた。
絶対に覚えてはいけない感情なのだが、気持ちは痛いほどわかる。
とはいえ自己啓発本の無意味さについては、糸井も全面的に同意している。
だが、何冊か読んでると公言した以上、不当な罵倒を甘んじて受け止める他ない。
「知ってる? そういうのって意識高い系って呼ばれてるんだよ」
「耳が痛いです……」
本当に痛いのは腹部だが、ダメージを受けているフリをする。
この手の輩は攻めさせておけば、勝手に気持ちよくなってくれる。
糸井としては時間さえ稼げればそれでいいのだから、好都合だろう。
「じゃあ小説とかは読まないってこと?」
「そうですね……子供の頃に何冊か読んだくらいで……」
嘘は一切ついていない。読書感想文を書くために、何冊か読んだのは事実だ。
内容どころかタイトルさえ覚えていないし、高学年の頃には読まずに感想文を書くようになっていたわけだが。
「よし、じゃあ本を見に行こう」
どことなく嬉しそうに提案する桜井。
糸井が読書家じゃないほうが好都合なのだろうか。
「え、あの、もう少し休憩を……」
「お客さんが増えてきた。周りの迷惑考えて」
よく言えたものだ。他者を思いやる気持ちなど皆無なくせに。
自分の要求を通すために、他者への思いやりを建前に使う。利益のために心にもない思想を押し付ける団体が、好んで使う下卑た手法だ。
この手法を用いるということは、桜井は人を支配する側で間違いない。少々強引な気もするが、大きく外してはいないはずだ。
「吐いたらそれこそ迷惑に……」
「あれぐらいの量、男なら大丈夫」
男を過信しているのか、自分が健啖家なことを認めたくないのか。いずれにせよ迷惑な話だ。
吐き気を堪えながら立ち上がる糸井に腕を絡める桜井。迷惑な話だ。
「あの、吐きそうなんで離れ……」
「この状態で吐いたら怒る」
桜井が離れればそれで万事解決なのだが、意地でも離れようとしない。
常人には全く理解できないと思うが『アナタが我慢すれば万事解決』、というのが桜井の主張だ。ゆえに離れるという選択肢は、ハナから存在しない。
(頑張れ俺……書店ならきっと立ち止まる機会も多いはず……)
「あっ、クレープ売ってる……」
まだ食べたりないらしく、物欲しそうな目でクレープ屋を見つめる。わざわざ立ち止まって。
足に根が生えたかのように、一向に動こうとしない。
桜井だけが食べるならば時間を稼げて好都合だが、糸井も食べるとなれば社会的な死が確定する。
「書店、書店行きたいです。未来さんの好きな本知りたいです」
絶対に自分も食べさせられると確信している糸井は、必死に桜井の気を引く。
作戦の方向性自体は正しいのだが、気の引き方がよろしくない。好意に気付いていないことによる弊害と言えるだろう。
「……そうだよね。知りたいよね」
糸井の鬼気迫る説得が、桜井の根っこを取り除いた。
クレープ屋のメニュー表に釘付けだった桜井が、再び歩みを進める。
その瞳には、クレープへの未練など微塵も感じられない。
(なんで? なんで上手くいった?)
結果だけ見れば喜ばしいのだが、なぜ上手くいったのか理解できずに困惑する。
元々、好きな本を勧めるのが桜井の目的だったのだが、糸井のほうから教えてほしいと懇願したことになってしまった。
自分色に染めようとしたら、向こうから染まりにきた。桜井視点だと、そんな風に見えているらしい。
「知りたいよね、そうだよね。ふふっ」
(……? なんでこんなに嬉しそうなんだ? まあクレープ回避できたから、別になんでもいいけど)
不気味ではあるが、とりあえず一難去ったことを素直に喜ぶ糸井。
まさか口説いた判定になっているとは、夢にも思っていないだろう。
深い意味などなかったのだが、桜井の中では『好きな人のことはなんでも知りたい。未来さんの全てを知りたい』、というプロポーズに変換されている。
何をしても好感度が上がるモードに入っているのだが、糸井がそれに気付くのはいつの話になるだろうか。
もっとも、気付いたところで既に手遅れなのだが。
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