第17話 意思疎通不可
徒歩二十分にも満たない距離だが、隣の県まで歩いていくような感覚に陥る。
重い荷物を背負っているわけでもなければ、急勾配な坂道を登っているわけでもない。にも関わらず、足取りが重い。
(頼む……女性とすれ違わないでくれ……歩いてこないでくれ……)
なんとも奇妙な祈りだ。
次にすれ違う人の性別を当てるギャンブルでもしない限り、することがない懇願だろう。
無駄な祈りを捧げるよりも対策を練るほうが利口なのだが、度重なるパワハラで完全に心が折れている。
(うわっ! 女性だ! 俺の許可なく歩くな! どっか行け!)
糸井の祈りなど神に通じるわけもなく、無慈悲にも女性が前から歩いてくる。
しかも運の悪いことに、そこそこ綺麗な女性だ。
視線を逸らすという努力虚しく、桜井から目移り判定を受ける。
「抓らないでくださいよ」
「わき腹ぐらいで文句言わないで」
部位よりも行為に文句をつけているのだが、桜井に通じるわけがない。
(今の……いずれはわき腹じゃ済まさないって意味に取れるんだが……)
桜井の好意にはとことん気付かないが、こういうところはめざとい。
不幸にも予感は的中しており、次の被弾箇所は腋だった。
「そ、それはやめませんか?」
不意打ちで腋に貫手、いわゆる地獄突きを受けて抗議する糸井。
「目よりはいいでしょ?」
もっともらしい言い分を述べたつもりになっているが、暴論と言わざるをえない。
最悪の事態じゃないからと言って、それがどうしたという話だ。
「アナタがいやらしい目で女の子を見なければいい話」
「見てませんって」
「言い訳無用。女は男の視線に気付く」
もはや聞き飽きた通説だが、実際は単なる自意識過剰だと思われる。
そもそも気付いた時にしかカウントできないし、露骨に視線が向いていれば男女関係なく気付く。
だが、今はそんなことどうでもいい。論点はそこじゃない。
「明らかに前向いてましたよね? 俺」
「私はそうは思わなかった」
(それ言われたら詰みなんだよなぁ)
スジを通さないのであれば代替案、折衷案を出してほしいものだが、この手の輩は要求するだけ要求して『方法は自分で考えろ』としか言わないのだ。
結局、目的地に着くまでわき腹を攻められ続けた。
小学生ぐらいの女の子とすれ違った際にわき腹を抓られた時は、さすがにわき腹を疑った。抓られすぎたせいで錯覚したのかと。
「こ、子供ですよ? 今の」
「そうだね。……で? 女に変わりはないよね?」
さすがに正気を疑った。もっとも、正気を信じたことなどないのだが。
どこまでエスカレートするのだろうか。
果ては赤ん坊、動物もアウト判定になるのだろうか。パッと見で性別を見抜くのも難しいと思うのだが。
「見るのは我が子だけにして」
「独身です……」
占い師だけあって未来を見すぎている。
一種の職業病だろうか。別の病気に罹患している可能性のほうが高い気もするが。
「頼むから私に暴力を振るわせないで」
DV常習犯のような物言いだ。なんとも腹立たしい。
『殴るほうが痛いんだ!』と宣うタイプに違いない。こういう輩に限って、自分が殴られた時は大騒ぎするものだ。
「まずは一階のドラッグストアに行こうか」
「あの、昨日薬局に行ったばかりなんですが」
「アナタには私好みのシャンプーを買ってもらう」
なぜ二日連続でシャンプーを買わねばならないのか。どんな大家族だ。
(っていうかなんでここまで彼女面してくんの?)
ここまでくると、もはや悪霊の類だろう。
橋姫にでも憑かれた気分になり、さすがの糸井も疲れた。
「はちみつシャンプーはあまり好きじゃないからやめて」
「へぇ、はちみつシャンプーなんてあるんですね」
「あとね、人工香料はあんまり好きじゃない」
「人工……なるほど」
桜井の好みの香りというこの世で無駄な知識のレクチャーを受けながら、棚を物色する。腕を組みながらシャンプーを吟味する二人は、周りの人間からどう見られているのだろうか。やはり付き合いたてのアツアツカップルに見えるのだろうか。だとすれば不名誉極まりない。
(普通に銘柄指定してくれよ……)
桜井からレクチャーを受ける度に『容量の無駄遣いやめろ』と、脳が抗議してくるような錯覚を覚える。
余談だが、レジが女性の店員だったため、会計中は常に足を踏まれていた。
「あの、女性とすれ違う度に攻撃するのやめてもらえます?」
無駄だとは知りつつも、待遇の改善を要求する。
「一方的に要求しないで。ちゃんと口説いて」
本当に同じ言語を用いているのだろうか。
別の言語を中継して再翻訳されているのではなかろうか。
口説かされる意味はわからないが、攻撃を止めるために言葉を絞り出す。
「桜井さんしか目に入らないです」
「なんで?」
「……美しい物だけを目に入れて、生きていきたいのです」
即興だというのを差し引いても、痛々しい口説き文句だ。
家族や友人に聞かれたら、その場で慙死してダーウィン賞を受賞するだろう。
「アナタは本当に好きなんだね、私のことが」
「……」
「返事っ」
「うぐっ……はい……」
肯定したくないという理性から、無言で乗り切ろうと画策したが、手の甲で局部を叩かれ、しぶしぶ肯定する。
その場で座り込みたいぐらいの鈍痛に見舞われるも、弱みを見せたくないので無表情で耐える。下手に痛がると、有効的な手段だと判断される恐れがあるからだ。
「そこまで情熱的に口説かれたら、次の段階に行かざるを得ない」
何を言っているかわからないが、迷惑なことをしようとしていることはわかる。
「下の名前で呼んでいいよ」
(なんで上からなんだよ……別に呼びたくないし)
「呼んでいいよ」
「み、未来さんっ」
手の甲を振る動作を見せつけられ、慌てて名前を呼ぶ。
拒否権を永久的に剥奪された気がしてならない。
「ん、よろしい」
下の名前で呼ばれたのがよほど嬉しかったのか、ご満悦な雰囲気を醸し出す。
もっとも、その雰囲気を読み取れるのは糸井以外に存在しないわけだが。
「もう少し良い男になったら、今度は手を繋いであげる」
精進できるように餌をちらつかせたつもりだろうか。
手を繋いで幸せになれるのは桜井だけであって、糸井にとってはなんのご褒美にもならない。そもそも、すでに腕を組んでいるのに、今更手を繋いだところでなんだというのか。
(薄々感付いてたけど、俺が占い師に惚れてるってことになってる?)
悲しいことに的中している。
糸井の予想と逆張りすれば、ギャンブルで必勝できるかもしれない。良い予想は的中せず、悪い予想は必中するのだから。
「とりあえず家具を見ようか」
「何か予定でも?」
「そうだね。要りようなものは特にないけど、ベッドは見ておきたいね」
「ベッド……ですか?」
ベッドを買い替える一般的な頻度はわからないが、少なくとも桜井のベッドは更新時期には見えない。
もっとも、桜井の懐事情など微塵も興味がないので、異論を唱えることはしない。
「さすがに狭いかなって」
(そう……だったか? さすがに大の字で寝るのは無理だろうけど、普通に広かった気が……)
今朝のことを思い出しながら、桜井の話に耳を傾ける。
糸井の記憶通り、窮屈さを感じるようなベッドではないが、占い師は狭さを訴えている。
「アナタもいつまでもソファーじゃ、しんどいでしょ?」
(……?)
問いかけの意味がわからず考え込むが、桜井がそれを妨害するかのように足を踏みつける。
「お礼ぐらい言ったら? 気遣ってあげてるのに」
「え、あ、ありがとうございます」
「社会人ならお礼ぐらい言えないと」
癪に障る物言いだが、そのおかげで先ほどの問いかけの意味が理解できた。
(俺を気遣ってベッドを購入……ソファーじゃしんどいってことはそういうことか)
桜井が糸井用のベッドを見繕ってくれようとしている。というところまでは理解できたが、新たな疑問が生まれる。
(え? また宿泊させられんの?)
シャンプーを買わされた時点で察していい気もするが、会う時は使えという意味で解釈していたので気付かなかった。
ベッドの件と合わせて、同棲させられるのは確定と見ていいだろう。気の毒だが。
(狭さに苦言を呈するってことは、大きいのを買うってことだよな? ってことは、俺におさがりをくれるってことか?)
「ちょっと待って、狭いベッドは狭いベッドでアリかも。よし、今のベッドは冬場に使おうか」
「……?」
「返事は?」
「え? あ、はい」
桜井の独り言だと思ってスルーしたのに、返事を求められて戸惑う糸井。
どうやら問いかけだったらしい。
(返事? どういうことだ?)
意見を求めているというより、同意を求めているような言い方だった。
だとしたら、なぜ糸井の同意が必要なのか。
桜井が口を開くたびに疑問が生まれるので、推理が追い付かない。
なぜそのような現象が起きるのか? 理由は簡単だ。
純粋に口下手な上に、意思疎通ができている前提で喋っているのだから、必然的に会話にズレが生じる。
「残念だけど、まだしばらくソファーだよ」
「そ、そうですか……」
非常に厳しい宣告だ。
ソファーで睡眠を取らされるのも大概だが、何よりも〝まだしばらく〟宿泊させられるというのが気の毒で仕方がない。
「ベッドを使いたいなら、私に認められるように頑張ってね」
「……あの、自腹で布団買ってもいいですか?」
「私はベッドじゃないと眠れない」
「いや、俺用の……」
「……? 認められるまでのツナギってこと? ゴミを増やさないで」
素面とは思えないほど会話が噛み合わない。
噛み合わないのも当然と言えば当然だ。
糸井は桜井の好意に気付いていないし、桜井への好意も特にない。無意識のうちに惹かれてはいるものの、自覚していない。
桜井は相思相愛だと思い込んでいる。なんだったら自分から糸井よりも、糸井から自分への愛のほうが大きいと思っている。
上記の会話を要約すると、以下のようになる。
『一緒に寝たいなら、もっと私の好感度を稼いでちょうだい』
『ベッド買ってもらうの申し訳ないし、ソファーじゃなきゃそれでいい。だから布団くらい自分で買います』
『布団で一緒に寝たいってこと? 悪いけどベッド派だから、私に合わせて』
『貴女の寝具を買うつもりはないです。自分のを買うだけです』
『私と一緒に寝る許可が下りるまでのツナギってこと? 許可が下りたらベッドしか使わなくなるんだから、無駄になるよ? 今日中に許可貰えるように頑張ってよ』
この噛み合わなさは、後々トラブルが起こる予感しかしない。
噛み合っていないと気付いた時点で話を中断して、お互いの意思を確認すればいいだけの話なのだが、糸井は桜井に質問することを恐れている。
仕方ないと言えば仕方ないが、過失と言わざるを得ない。
「ほら、早く。今日は見る物がたくさんあるから」
(荷物持ち要員がいるから、色々と買うってことか? ってことは家事とか雑用を押し付けるために、俺を家に連れ込んだのか)
自分の役割を悟って『俺は、いつ自由になれるんだ』と落胆する糸井。
この程度の想像で落胆しているようでは、先が思いやられる。真相を知った時、どうなることやら。
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