第15話 問答無用の禅問答

 リビングに一歩近づくにつれ、胃が痛む。早く抜け出したいが、歩みを進めるのが怖い。RPGで毒の沼を歩く主人公も、同じような気持ちなのだろうか。

 シャワーを浴びたことによる爽快感など微塵もなく、仕事でミスを犯した翌日のような面持ちで扉を開ける。


「動かないで」


 部屋に入って早々、桜井に呼び止められる。

 どうやら、入浴後の水分補給さえままならないようだ。


「えっと、なんでしょうか?」


 糸井の質問に答えることなく、糸井の匂いを嗅ぐ桜井。

 一体何がしたいのか。性癖なのだろうか。


「あの? 風呂上りとはいえ、恥ずかしいんですけど?」


 当惑する糸井だが、『知ったことか!』と言わんばかりに髪の匂いを嗅ぎだす。

 本来であれば気恥ずかしさを覚えるのだろうが、恐怖以外湧き上がらない。


「この匂いは私の好みじゃない」


 声のトーンのせいでわかりづらいが、感嘆ではなく否定の意だろう。


「そ、そうなんですか。へぇ」


 聞いてもいない嗜好を教えられ、戸惑いつつも適当に返事をする糸井。


「そうですかじゃない」


 その反応が気にくわなかったのか、桜井は苛立った声で糸井を咎める。

 第三者視点では真っ当なリアクションにしか見えないのだが、桜井的には不誠実な対応だったらしい。


「謝罪の一つもできないの? 小さい男」


 どこに謝罪するポイントがあったのだろうか。

 なぜ狭量な男扱いされなければならないのか。

 反論の余地はいくらでもあるが、糸井にできる最大の抵抗は心の中で毒づくことぐらいだ。


(お前だって小さいだろうが)


 言うまでもないが糸井の頭の中では、脱衣所で見た下着が想起されている。

 あまり思い返すと〝大きい男〟になる恐れがあるので、脳内のお宝フォルダに固く封印する。

 嫌厭の情を抱きつつも欲情している辺り、俗物なのかもしれない。


「適当に選んだの? シャンプー」

「リンスがいらないタイプを適当に……」

「は?」


 この『は?』は聞き取れなかったがゆえのリアクションではない。憤慨の意だ。

 出会った当初に比べて喜怒哀楽が明瞭になったのは喜ばしいことだが、できることならば〝喜〟で実感したかった。


「なんで?」

(俺の台詞だよ……嫌な上司みたいな詰めかたしてくんなよ……)


 糸井の経験則からいって、これは理由を問うてるわけではない。自分が望む答えを出せという脅しだ。

 目上の人間に恵まれない者ならば、幾度となく経験する状況だ。基本的にどう答えても怒られるので、実質詰みと見ていい。


「安価な物を選びました……」


 これまでの人生経験から、黙っていると余計に怒られると判断し、無難な答えを捻りだす。


「それで私が喜ぶと思ったの?」

(別に喜ばせようと思ってないです……)


 プレゼントならまだしも、自分用のシャンプーだ。選ぶ基準に赤の他人を置く必要などないはずだが、まともじゃない人間に一般論など通用しない。


「考えなかったの? 何を買えば、私が気に入るかって」

(仮に考えたとして、人の好みなんかわからんだろ……。特にお前は……)


 好きな色も知らないし、好きな音楽も知らない。本名や年齢だってついさっき知ったばかり。そんな相手の好きな匂いなど、何を判断基準にして推測しろと言うのか。


「すみません……」


 不条理且つ不可解だが、この場を凌ぐために謝罪する。社会人生活で培った数少ない技術、大人の対応だ。これを早期に会得できるか否かで、人生は変わるはずだ。


「謝ればいいと思ってるの?」


 変わらないらしい。嘘をついて申し訳ない。


「そのシャツも全然好みじゃない。そろそろ怒り心頭なんだけど」

「……すみません」


 怒涛の難癖により、謝罪ボットと化す糸井。


「すみませんって言えば、どうにかなると思ってるの? サラリーマンって、皆が皆そんな感じなの?」


 糸井を非難するだけでは飽き足らず、名前も知らない社会の歯車達も連帯責任で不当に貶められる。

 無言を貫こうが、理由を説明しようが、謝罪しようが責められる。

 こういう輩の怒りを買った時は、交通事故に遭ったとでも思って諦めるしかない。


「罰として今夜はソファーで寝ること」


 不満気な顔でソファーを指差す。好みに沿った物を買っていれば、別の待遇が待っていたのだろうか。


(うわぁ……体痛めそう……まあ、説教タイムがようやく……)

「説教は明日じっくりするから」

(げっ……まだ言い足りないのかよ……)


 安堵していた糸井に、まるで心を読んだかのような死刑宣告をする。


「じゃあ明日は七時に起こして。起こす時のみ部屋に入ることを許可する」


 望んでいない許可と命令を下し、軽く欠伸をしながら寝室に向かう桜井。

 聞きたいことも言いたいことも山ほどあるが、一時的に解放されたことを純粋に喜ぶことにした。束の間の平穏、最後の晩餐と言い換えても差し支えないだろう。


(七時起きかぁ……日曜なのに……いや、起こすことを考えたら六時半ぐらいには起きないといけないか)


 休日は目覚まし時計をセットせず、自然に目が覚めるまで熟睡するのが糸井の習慣だ。ルーティン、特に娯楽や睡眠に関わるものを崩されるというのは気分が悪い。

 知らない天井に慣れないソファー、普段よりも短い睡眠時間、貴重な休日の浪費、ありとあらゆる要素が糸井を苦しめる。


「いや……寝れんだろ……こんなん……」


 恋人でもない異性の家、睡眠の用途で製造されたわけではないソファー、睡眠に適さない服装、明日への不安。

 入眠を阻害する要素がてんこ盛りだが、精神的な疲労がそれらを上回り、気絶に近い早さで眠りに落ちた。




 予想通り、糸井の体はガタガタだ。

 睡眠時間だけ見れば十分かもしれないが、寝返りさえうてないソファーで睡眠を取るというのは中々ダメージが大きい。そもそも成人男性が寝るのに適したサイズではない。当然だ、一人暮らしの人間が使っているソファーなのだから。

 夢だと自覚している夢、いわゆる明晰夢を見てしまったというのも大きな要因だ。

 起床した時点で肉体と精神、ともに疲弊しているのだが、見慣れない天井がさらに疲労感を強めた。


(夢であってほしかった……ああ、そういえば出かけるんだっけ……吐きそう……)


 お出かけの予定、桜井を起こすというミッション。これらを思い出した途端、さらなる精神ダメージを負った。泣きっ面に蜂とはこのことか。


(あれ? 七時丁度に起こしたほうがいいのか? 五分ぐらい早めに起こしたほうがいいのか?)


 考えても答えなど出るはずがない。そんなもの起こされる側の匙加減なのだから。

 とりあえず『七時に起こして』という言葉を額面通りに受け取ることにした。

 これが正解なのかどうかは桜井次第なので、考えても仕方がない。むしろ、考え込んで七時をオーバーするほうが怖い。最も最悪のパターンに違いない。

 

「さ、桜井さーん」


 緊張しながら扉をノックするが、返事がない。

 十秒ほど待ってから再度ノックするも、返事は返ってこない。


「入りますよー?」


 入室宣言から十秒ほど待ってから、扉をゆっくりと開ける。


「桜井さん?」


 なるべく部屋の内観を見ないようにして、ゆっくりとベッドに近づく。さながら、寝起きドッキリのような足取りで。


(……寝顔は可愛いな……腹立つけど)


 怒りを買っても困るので、もう少し眺めていたいという欲望を抑えて声をかける。

 だが、起きる気配がまるでない。

 体を揺すれば早いのだろうが、許可なく触る勇気はない。


「あっ、そうだ」


 おもむろにスマホを取り出し、アラームを鳴らす。

 すると、まるで目覚める気配がなかった桜井がパチッと目を覚ました。


「おは……うぶっ!?」


 朝の挨拶をしようとした糸井の頬にビンタが入る。当然、犯人は桜井だ。


「アラームの音が嫌いだから起こせって頼んだのに、バカなの?」


 お礼よりも先に不満を述べるとは、どういう育ち方をしたのだろうか。

 

(言えよ! アラーム音が嫌いって! 昨日の時点でよ!)


 怒りを悟られないように目をつぶりながら、叩かれた部分をさする。


「普通わかるよね? アラーム音で起きられるなら、最初からそうするよね? アナタは論理的思考や水平思考が苦手なの? 男は一般的に左脳が活発だから、論理的な思考に長けているはずだけど、アナタは違うの? だから女々しいの?」


 よくもまあ、寝起きでここまで舌が回るものだ。

 糸井と出会った頃の桜井は寡黙だったはずだが、単に心を許していなかっただけなのだろうか。

 いや、罵詈雑言を浴びせる時に限って饒舌になるのではないだろうか。なんにせよタチが悪い。


「で? 言うことは?」


 今まで間違え続けてきた糸井だが、これの対応に関しては自信がある。

 そう、答えは一つ。謝罪あるのみ。糸井に非があるか否かは問題じゃない。桜井が怒っている時は、とにかく頭を下げるのが最適解だ。

 夜這いをしたわけでもなければ、金品を漁ったわけでもない。非などあるはずがないのだが、とにもかくにも謝罪あるのみ。


「すみません……」

「違う」

「あだっ」


 違うらしい。

 このビンタはなんだろうか。不正解のSEだろうか。


「あの、俺、何か粗相を……あだっ」

「甘えないで。大人の男なら、答えぐらい自分で見つけて」

(胃が痛い……頬も痛いけど、とにかく胃が痛い……)


 疲労と怒りと恐怖で心が折れそうな糸井だが、休むことは許されない。

 正解を出すまで叩き続けるという、明らかに間違ったスパルタ教育は小一時間程続いた。これでは、なんのために早起きしたのかわからない。

 結局、糸井が正解に辿り着けないまま教育タイムは終わりを告げた。

 ちなみに答えは『非常に可愛らしい寝顔でした。ありがとうございます』だ。幼稚園児が考えた支離滅裂なクイズのほうが、まだ簡単かもしれない。

 言うまでもないが、時間を浪費したことに関しても怒られた。

 不条理もここまでくると、もはや怒りさえ感じない。ただただ、地獄のようなクイズが終わったことに安堵する糸井。


「で、もう一つあるよね? 言うこと?」

(帰して……お家に帰して……会社でもいい……休日出勤したい……)


 SNSで流行っているモラハラ夫の漫画は、全部が全部被害妄想というわけではないのかもしれない。もしかしたら、極稀に桜井の男バージョンが存在するのかもしれない。そんなことを考えながら、桜井が満足するまで頬を差し出し続けた。

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