第3話 一寸先は死地、そしてその先も死地
下痢止めのCMで男性が起用されることから分かるように、男性というのは女性に比べて腹を下しやすい。ちなみに頭痛止めのCMで女性が起用されるのも、同じような理由である。
食生活や腹筋、その他諸々の要因が絡んでいるらしいが、それらは今この時において重要ではない。
通勤電車という考えうる限り最悪の場所で、急激な便意に襲われている。その事実だけが重要なのだ。
後で聞いたところで、糸井は覚えていないだろう。腹痛に見舞われてからトイレに駆け込むまでの数分間を。
昨日の今日なので、トイレから昨日の占い師が連想されそうなものだが、社会的な死を前に、余計なことを考えられる程の胆力はない。
「個室が開いていなければ死んでた。トイレの神様、感謝しています」
気が付けばトイレにいた。
誇張表現を抜きに道中の記憶がないらしく、謎の神に感謝の祈りを捧げている。
切羽詰まった糸井の頭には、トイレに閉じ込められるという占いの結果などなく、本能の赴くままに施錠して用を足していた。
もっとも、昨日の占いを覚えていたとしても、駅のトイレで扉を開放する勇気などないだろうが。
「あれ、そういえば」
社会的な死を免れたことにより、ふと昨日のことを思い出す。
占い師曰くトイレに閉じ込められる未来が待っているらしいが、時と場所は指定されていない。
家だろうが駅だろうがトイレはトイレ。占いに出てきたトイレが、このトイレだとしても不思議ではない。
「バッカじゃねえの」
トイレに閉じ込められた経験など、二十余年生きてきて一度もない。そもそも、普通に生きていれば、経験しないまま生涯を終えるだろう。
「アホらし……さっさと行くか」
馬鹿馬鹿しいと思いつつも、鍵に伸ばした手は心なしか震えている。
占いの結果など毛頭信じていないが、鍵など所詮は消耗品、一生ものではない。勢い余って鍵を壊す可能性は少なからず存在する。
そもそも閉める時に勢いをつけすぎたため、多少なりとも鍵にダメージが入っているはずだ。
占いの有無に関わらず、ゆっくり開けるのは当然の判断。人として当然のことをするだけだと、自分に言い聞かせて慎重に開錠を試みる。
「知ってたよ」
当然ですよと言わんばかりによどみなく鍵が開き、思わず独り言が漏れ出る。その声には安堵の気持ちが込められていたが、糸井自身それに気付いていない。
開錠に成功したことで再認識する。あの占い師は、ただの美人にすぎないと。
容姿が優れていることによって人気になっただけで、摩訶不思議な能力など持っていない。
もしも美人に生まれ変わったら、自分も占い師になって荒稼ぎしよう。そんな浅ましい妄想をしながら、扉を開けようとした刹那。
「今日の一時間目ってなんだっけ?」
「数学じゃね?」
学生と思わしき会話が耳に入り、糸井の動きが止まる。
この駅で最も悪臭が漂う場所、用を足した直後のトイレにいることも忘れ、静かに深呼吸をしながら再び鍵を閉める。
高校生にしろ大学生にしろ、電車通学など珍しくない。ならば学生の声が聞こえようとも、なんら問題はない。
学生だろうと社会人だろうと、トイレぐらい誰でも使用する。ならば、学生がトイレにいることも、なんら問題は無い。
問題なのは自分がここにいること、それに他ならない。
(えっ……)
この世で最も白い塗料がアメリカで開発されたらしいが、糸井の頭の中は、それの比じゃないくらい真っ白だろう。
糸井は生理現象によるバイオテロという、社会的な死を乗り越えた。バイオテロが敢行されていれば、向こう一ヶ月はこの時間帯の電車に乗れなかっただろう。
それを乗り越えたのだから、本来であれば否が応でも、元の日常に戻れるはずだ。
だが現実は、どうだ。元の日常は、まだまだ遠くにある。間にあるのは、たったの扉一枚。数センチの木製の扉一枚。
扉一枚あけるだけで日常に戻れるのだが、糸井にとってその一枚が魔王の封印より堅固な物になっている。
(俺には帰る場所が無い……こんなに悲しいことはない……)
死地を乗り越えた先が新たな死地だとは、夢にも思うまい。
一概に比較することはできないが、逮捕される可能性を考慮すれば現在地、現在死地の方が危険だ。考えようによっては、先ほどの死地は大したものではなかったかもしれない。下痢で逮捕された人間は数えるほどしかいないだろうから。
(声変わりする前の男子かもしれない。そうであってくれ)
個人差はあるが男性の声変わりは、早い者で小学校高学年、遅い者でも中学生のうちに完了するのが一般的だ。
無論、高校生になってから声変わりするというのも、ありえない話ではない。
極端な話だが、声変わりしない人間だって存在する。
だが、二人揃って、声変わりしていないというのは、どう考えても不自然な話だ。
かといって、この時間帯に中学生男子がいるとは考えにくい。
(中学生が部活か何かで電車を使ってるんだ。きっとそうだ)
手遅れだと知りつつも、ここが男性用トイレであることを必死に祈る。
そんな糸井を嘲笑うかのように、視界の端に映るサニタリーボックスが、現実を見せてくる。
それでも祈らずにはいられない。他にできることなどないのだから。
そもそもサニタリーボックスは、女性限定というわけでもない。病人や高齢者のために設置されることだってある。
糸井の記憶が正しければ、この駅の男性用トイレには設置されていない。だが、記憶違いという可能性もあれば、最近設置された可能性だってある。
現実逃避を試みるも、外の会話が耳に入る度に現実に引き戻される。
(まさか……トイレに閉じ込められるって、こういうことだったのか?)
よくよく考えてみれば、物理的に閉じ込められるとは一言も言ってない。付け加えるなら、男性用のトイレとも言ってない。
占い師の予言が的中したわけだが、果たして偶然なのだろうか。
二十年前の占いならまだしも、昨日の今日なわけだが、本当に偶然なのだろうか。
たしかに占いはオカルト以外の何物でもない。だが、これを偶然で片付けるのは、それ以上にオカルトだろう。
(認めるしかないのか? あの不愛想な女が本物だと)
体が震えるのは、この極限状況のせいだろうか。それとも、占い師に対する恐怖のせいだろうか。
なんにせよ今は、この窮地から抜け出すのが先決だ。考え事をするのは、ここを脱出してからでも遅くない。
唯一の救いは、この駅の利用者が少ないということだ。利用者が多い駅に比べて、脱出時に目撃される可能性は低い。長時間こもったところで、駅員が様子を見に来ることもない。
個室が複数あるというのもありがたい。一つ、二つならば、出待ちされる可能性、扉をノックされる可能性があっただろう。無視すれば、病気で倒れている可能性を考慮して覗かれるかもしれない。返事をすれば、即ゲームオーバー。
(頼む……イベント会場並みのトイレラッシュとかやめてくれよ)
この駅で降りる人間も、乗り換える人間も少ないので、食中毒でも流行らない限り問題はないはず。
状況が状況なだけに手放しで喜ぶことはできないが、不幸中の幸いというヤツだろう。清掃員さえ来なければ、強制ゲームオーバーはないはずだ。
利用者に比例して、電車の本数も決して多くはない。通勤ラッシュさえ耐えれば脱出のタイミングは必ず訪れる。
かくして、世界一小規模で、世界一くだらない籠城作戦が幕を開けた。しくじれば籠城作戦と同時に、人生の幕も閉じるのだが、それにしたってくだらない。腹は下ったが、この状況はくだらない。
通勤ラッシュさえ耐えればいいとは言ったものの、脱出するためには、なけなしの勇気を振り絞る必要がある。
勇気とタイミングが整い、脱出に成功した頃には二時間近くが経過していた。
脱出できるタイミング自体はあったが、勇気が中々出なかった結果だ。残念というほかない結果だが、誰が糸井を責められようか。
交通系ICカードの利用履歴に、不正乗車と疑われかねない程、不自然な乗車時間が記録されてしまった。場合によっては後日、事情聴取を受けるかもしれない。
だが今は、それ以上に気がかりなことがある。
「やってしまった……」
糸井は余裕を持って出社するタイプの人間だが、それでもさすがに、二時間も早く家を出たりはしない。
日本中を探せば、そういう人間も少なからず存在するだろう。その人間は絶対に時間の使い方を間違っているので、身近にいたら止めてあげてほしい。
「めっちゃ鬼電きてる……」
死地からの離脱に成功した喜びや解放感は、同じ番号がところせましと並ぶ着信履歴を見て、一瞬で雲散霧消した。
電話帳に登録されている名前を女性っぽくすれば、メンヘラの女性との交際を疑似体験できるだろう。
もしくは〝担当編集者〟にして、締め切りに追われる売れっ子作家になりきるというのも、乙なものだ。
しばらくの間、何の解決にもならない現実逃避を堪能した後に、胃を押さえながら会社に電話を折り返す。腸の次は胃を痛めるとは、つくづく内臓運がない男だ。
「朝から体調が悪くてですね。はい、仰る通りです。はい、すみません。はい」
連絡が遅れたことを延々と責められ、挙句の果てには寝坊の疑いをかけられる。盗撮の疑いは無事に免れたが、寝坊の疑いからは逃げられない。
近い将来、不正乗車の疑いがかかるかもしれないということを考えると、更に胃が痛くなる。
「すみません。電話できないくらい、体調がですね、はい」
外国の場合はわからないが日本では、体調不良を押してでも電話による連絡をすることが求められる。更にいえば、いつ電話をかけてもいいというわけではない。早く目が覚めた場合は、上司が出社する時間まで起き続けなければならない。
先進国とは思えないほど不合理な文化だ。メッセージによる欠勤連絡が許される時代は、来るのだろうか。
(言いてえ……電話したくてもできなかったって、禍根が残るくらいバチグソに怒鳴り散らしてぇ……)
通話禁止の公共交通機関に乗っていようが、この国では弁解を認められない。ならば当然、女性用トイレに閉じ込められていたという弁解も認められない。
もっとも、それが認められたところで、口にする勇気はない。女性用トイレに入ること自体が、社会から認められないのだから。
「すみません、はい、今日はちょっと……はい、申し訳ございません」
今から出社するのもバツが悪いので、断腸の思いで、当日欠勤という日本社会における禁じ手を使う。
体調不良というのは強ち嘘でもないので、罪悪感は特に残っていない。ボロクソに怒られて、頭に血が昇っているというのもあるだろうが。
「明日行きたくねぇ……」
明日の出社を想像するだけで胃が痛む。日本のストレス社会は、胃薬を売りたい製薬会社の陰謀によるものだろうか。
「年甲斐もなく泣きわめきたいけど、とにかく行かないとな」
現実逃避もほどほどにして、再び駅の改札を通る。会社以上に行きたくない所へ行くために、上司以上に会いたくない人間に会うために。
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