11

 部屋の外からぼそぼそとささやくような声が聞こえ始めた。ひとりじゃなくて、何人も、男も女もいっしょになってしゃべっている。さざ波みたいな声が耳に入ると背中がぞわぞわした。そのとき、先生が口を開いた。

「うるさい」

 教室の中で号令をかけるときみたいな、よく通る声だった。

 廊下のささやき声は、しん、と静まり返った。

「せんせい……?」

「大丈夫。あんなのいるだけだから」

 先生はぽつりと呟く。

「泉さんにも見えちゃった? お守り、効き目切れちゃったかもね。こんなにすぐだめになるのかぁ」

 呆気にとられているわたしの前で、先生は

「あれはねぇ、やくっていうのかな」

 そう言って、ココアを一口飲んだ。いつものかわいくて明るいありちゃん先生じゃない、全然知らない大人に見えた。

「幽霊じゃないの。ただのよくないものの固まり。あの影が近くに来ると、なんかイヤだなぁって思うでしょ。当たり前なんだよね、だってそういうものだから」

「先生、あの」

「泉さん、棟上げ式って知ってる?」

 先生はわたしの言葉をさえぎって続けた。「あれって、餅や小銭をまくんだけど、厄払いの意味があるんだって。拾った人が厄を持って行ってくれるって――そういう説があるらしいよ。先生さぁ、その話初めて聞いたときびっくりしちゃった。めでたいことのおすそ分けだとばっかり思ってたんだよね。とにかくさ、厄は分散することができるの。固まってるうちはまぁまぁ強いけど、ちっちゃくしてバラバラになったら、そのうち消えちゃう」

 先生はそう言いながら、テーブルに円を描いた。そこから何かが分かれるように、キュッ、キュッといくつか線を引いていく。

「だからね、ちっちゃくした厄をちょっとずつ何かに移して、それをだれかに拾ってもらうの。そしたらほぼ確実に消滅させることができるからね。実は、そういう仕事があるんだ。厄を小銭に移して、ちょっとずつあちこちに撒いて、だれかに持ってってもらうの。ちょっとずつだから基本的には大丈夫、持っていった人に悪いことが起きたりはしない。たまにすごーく敏感な人がいて、ちょっとだけの厄に影響されちゃったりするんだけど」

 先生の目はもうわたしを見ていない。廊下を見ている。廊下からこっちを見ているものたちを、じっと観察している。口だけが動く。

「でさ、そういうことをやっていると、そのうち、だれかが考え始めるの。厄を消しちゃうんじゃなくて、集めて武器にできないかって。だって、場合によってはとりつかれた人が死ぬくらいのものだもん。消しちゃうよりも、誰かが制御して使ったらすごく便利だよね。どうかな、泉さん。そう思わない?」

 わからない。使ったら人が死んでしまうくらい強い武器を渡されたら、わたしなら怖いと思う。でも、そうじゃない人もいるかもしれない。

「泉さん、嫌いな人とかいない? いなくなってほしい人とかさ。逮捕されたりとか、そういうペナルティなしでだれかを殺したいって思ったことない? あるでしょ? あるはずだよ」

 先生は相変わらず廊下を見つめている。並んでいる黒い影。厄とかいうもの。

「――先生にはあったんですか?」

 少しためらいながら尋ねると、先生の横顔が動いた。

「あったよ。もうけっこう昔、わたしが中学一年生だったころにね」

 静かに話し始める。

「うちの父が不倫して、よその女のところに行っちゃってさ。うちの母も病んじゃって、わたしに当たるわけ。そのころ母の実家に引っ越したんだけど、不倫相手の女が訪ねてきて勝手なこと言ったりしてさ。思ったよ。みんな死んじゃえばいいのにって。両親や不倫女だけじゃなくって、祖母や叔母のことも嫌いだった。そのうち、家に何の問題もなくって楽しそうにしてる従兄たちのこともだんだん憎くなってきてさ」

「あの……その人たち、どうなったんですか?」

「母と祖母は死んで、叔母の家は一家離散しちゃった。父と不倫女はねぇ……泉さんが一番よく知ってるはずだよ?」

 先生が急にわたしの方を見た。空に浮かんでる星みたいにきれいで冷たい瞳が、わたしの目をじっと見つめた。

「先生? なんの話ですか……」

「泉さんのお父さんとお母さんの話をしようとしているの」

 先生ははっきりとそう言った。「十四年前、わたしと母を捨てた父と、その父を奪った女が泉さんのご両親なんだよ。あなたは父とわたしの母が離婚したとき、不倫女のお腹の中にいたの。泉美鈴みすずさん」

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