10

(お母さんかも)

 お母さんが追いかけてきたんだ――そう思ったら体が固まってしまった。そうしている間にも足音は後ろからどんどん近づいてくる。

「あれ? もしかして泉さん?」

 お母さんの声じゃない、とわかったと同時に体が動いた。振り返ると、立っていたのはありちゃん先生だった。キャメルブラウンのコートを着て、赤いマフラーを巻いている。

「たまたま車でそこを通ったの。そしたらうちの中学校の子がいるなぁと思って……それで見に来たんだよ。どうしたの? もしかして、おうちで何かあった?」

 何もないです、って言いたかったけど、できなかった。涙がぼろぼろ出てきて止まらなかった。


 先生の車はけっこう広い。後部座席には吹奏楽部の備品っぽい毛布が何枚も重ねてある。助手席に乗せてもらって、ティッシュで鼻をかんでいるわたしの横で、先生がエンジンをかけた。

「泉さん、一日だけうちに泊まっちゃう?」

 先生が言った。「何があったか知らないけど、今夜は家に帰りたくないんじゃないかなぁ」

「いいんですか?」

「生徒を個人的に泊めるわけだから、ほんとはあんまりよくないね」

 先生はそう言って笑った。「でもいいよ、事情があるんだから。先生んち、ちょっと広いし」

 車に十分くらい乗ってたどりついた先生の家は、一階しかないけど一軒家で、確かに想像してたよりはちょっと広い。

「一人ぐらしだけど、たまたま安く借りられたの」

 先生の家はきちんと片付いていた。リビングの隅っこに小さな仏壇があって、その前に白い箱が置かれている。どきっとした。たぶんこれ、骨壺だ。初めて見た。

「ごめんごめん、気になると思うけど、気にしないで。ソファにでも座っててね」

 先生はわたしに向かって拝むみたいなポーズをとる。

「それ、母のお骨なの。昔は二人で暮らしてたんだけど、亡くなってね。本当はお墓に入れたりしなきゃならないんだけど」

「入れないんですか?」

「色々ね、便利だし」

 便利? お墓参りに行かなくていいってことかな。

 先生は「ちょっと待ってね」と言いながら奥に引っ込むと、少ししてオーバーサイズのパーカーにデニム姿で出てきた。かわいい。なんだか、友達のお姉さんみたいに見える。

「はい、寒かったでしょ」

 先生が作ってくれたココアを飲んで、あったかい室内にいると落ち着いてきた。

「なんで家出てきちゃったのか、聞いてもいい?」

 両手でココアのマグカップを持ちながら、先生がわたしに尋ねた。どうしよう。なんて言えばいいんだろう。

「その……お母さん、様子が変で。わたしのこと、急に小さい子どもみたいに扱ったりするから、怖くなって」

 全部は言えなかったけど、でも嘘じゃない。ちょっとだけ話せた。まだお父さんのこととか、他人に言うのは怖い。

 先生は「そっか」と言いながらうなずく。

「今日は先生の家に泊まるって、おうちに一応連絡しなきゃね。先生が電話かけといてあげる」

「すみません」

「くるしゅうないぞ」

 先生はそう言って、くすくす笑った。

 ココアはマシュマロが浮いてて、たぶんわたしが今まで飲んだ中で一番甘いココアだ。今は甘い方がうれしい。息をふうふう吹きながら飲んでいると、先生が「ねぇ泉さん」と話しかけてきた。

「ありちゃん先生はこれでも先生なので、ちょっとお説教みたいなことを言うんだけどさ。泉さんは、もっと大人を頼った方がいいと思うな」

 そうかな。そうかもしれない――なんだか肩身がせまくて、わたしはココアの表面をゆっくり動くマシュマロを見つめていた。先生はひとりで話を続ける

「ま、まず親に頼りにくいと難しいよね。でも中学生ってやっぱりまだ子どもだし、色々ままならないことも多い――っていうことが、大人になるとよくわかるんだよね。だからもっと気軽に頼ってほしいな」

「……すみません」

「謝らなくていいんだよ。先生も泉さんくらいのころ、大人に相談したりとか、そういうのすごい苦手だったし」

 視線をあげると、先生もわたしがやってたみたいに、ココアの表面をじっと見つめていた。

「親も親戚もみーんな嫌いだった……」

 急に部屋の空気が重苦しくなった。

 廊下の方から、ミシッという小さな音が聞こえた。廊下とリビングの間のガラス戸の向こうに、黒い人影が立っていた。

(まただ……)

 わたしはマグカップをテーブルに置き、ポケットの中のお守りをにぎりしめた。

 ミシッ、ミシッと足音をたてて、黒い人影がもうひとつ近づいてくる。また足音が増える。三人、四人――

 廊下が人影でいっぱいになっていく。

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