09
ダイニングテーブルの上にはもう夕飯の支度が整っている。真ん中にホーロー鍋が置かれていて、お母さんは鍋のふたをとり、そこからシチューをお皿に注ぐ。
「みいちゃん、ご飯を食べたらお母さんとお風呂に行こうね」
お母さんはにこにこしている。エプロンの前が黒く汚れている。「お父さんがいるから、お風呂使えないもんね。近くにお風呂屋さんがあってよかったねぇ」
古くなった血のにおいと、シチューのホワイトソースのにおいがまざって、わたしは吐きそうになる。お母さんは平気で席につき、スプーンをとってシチューを口に運ぶ。
「うん、おいしい。上手にできたわ。ねぇみいちゃん。お母さんがお父さんと付き合い始めたの、お母さんの料理がきっかけだったって知ってる? お父さんが前の会社に勤めてたときにね」
「ねぇ、お母さん」
わたしは吐き気をこらえながら、やっとの思いで口を開いた。「何でわたしのこと、みいちゃんって呼ぶの?」
お母さんは不思議そうな顔をする。「みいちゃんはみいちゃんじゃないの。自分の名前を忘れちゃったの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「みいちゃん、テスト勉強でつかれたんでしょ。ご飯食べなさい。それで銭湯に行って、今日はもう早く寝ましょう」
「お母さん……」
わたしはホーロー鍋の中を見てしまう。細かな毛がたくさん浮いた鍋の中に、小さな小さな動物の足が半分沈んでいる。
また吐き気がこみ上げて、思わず咳き込んでしまう。お母さんは心配そうな声で「だいじょうぶ? 風邪かしら」と言う。
「寒いもんね、早く寝ようね。みいちゃん」
「やめて……」
「テスト勉強なんかいいから。ちょっとくらいテストの点が悪くたって、お母さんはみいちゃんのことが大好きだからね。明日テストが終わるでしょう。何食べたい? なんでも好きなもの作ってあげる」
「やめてよ」
両目から涙がぼろぼろこぼれた。気持ち悪かったせいもあるけど、急にすごく悲しくなったのだ。こんなことになる前のお母さんは、わたしにこんなに優しくなかった。お父さんとけんかしてイライラして、わたしにもよく当たった。
(忌々しい、なんでそんないやな顔してるの)
何度もそう言われた。
(顔立ちがお父さんに似てるね。きっと性格も似てるわよ。目の前の問題から逃げてばっかりの人生になるんでしょうね。やっぱりこんな結婚まちがいだった。お父さんはね、お母さんと結婚するときだって――)
「みいちゃん」
うずくまっているわたしの背中を、お母さんの手が優しくなでた。
「いい子、いい子」
まるで小さい子に呼びかけるみたいな声だった。このままお母さんの「みいちゃん」になっていれば、わたしもお母さんみたいに幸せそうな顔でにこにこしていられるのかなって――考えれば考えるほど悲しくなった。
うずくまっているわたしの視界のすみに、なにか黒いものが見えた。
足の形をしていた。
何か黒い影みたいなものが、こっちに爪先を向けて立っている。先生にお守りをもらってから、まだ一度も見えてなかったのに。
その爪先が、わたしの方に一歩踏み出してきた。
わたしは顔を手でおおったまま立ち上がった。「ごめん、気分悪いから休む」そう言ってキッチンを出た。
背中のほうで、「おやすみぃ」とお母さんの声がした。そのもっと後ろの方から、くすくす笑うような声が聞こえてきた。
気がつくと、夜の公園に立っていた。街灯がだれも乗っていないブランコをさびしく照らしている。
いつのまにここまで歩いてきたのか、見当もつかなかった。中学校の制服の上にダッフルコートを着ているけど、それでもまだかなり寒い。
キッチンから逃げ出して、その後どうしたんだろう――衝動的に外に飛び出したんだっけ。だって家の中はすごいにおいでおかしくなりそうだったし、そのうちあのシチューを食べさせられたかもしれない。思い出すだけで、すっぱいものがのど元まで上ってきた。
(どうしよう)
家に帰りたくない。でも、ずっと外にいるわけにもいかない。どんどん心細くなってきて、わたしはポケットの中のお守りをにぎりしめた。
そこに、だれかの足音が近づいてきた。
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