08

「……ずみちゃん? 泉ちゃーん」

 肩をゆさぶられて、ようやく声をかけられていることに気づいた。隣の席に座っている矢沢さんが、心配そうな顔でわたしを見ている。

「泉ちゃん、テスト終わりだよ。前に当案回して」

「……えっ、あ、ごめん……」

 あわてて自分の答案を前の席の脇田さんに渡す。脇田さんも首をかしげて「大丈夫?」とわたしにたずねる。わたしは一生懸命笑顔を作って「大丈夫」と答えた。ほかに何て言ったらいいのか、わからないからそうするしかない。

 テストの出来はたぶんめちゃくちゃだろう。自己採点する気もわかないし、そもそも問題用紙に自分の回答を書いておくのを忘れている。とにかく、ようやく今日の時間割が終わった。期末試験は明日もあるから、今日こそ家に帰って勉強を――いや、学校でやった方がいいだろうか。いや。

 やっぱり帰ろう。こんなときにテスト勉強なんて、できる気がしない。

「泉ちゃん、なんか今日具合悪かったりしない?」

 矢沢さんがわたしに声をかけてきた。そんなに顔に出てるんだろうか。

「うーん……実はちょっとおなか痛くて」

「そうなん? テストの日に大変だね」

 あはは、と笑ってごまかす。本当にごまかせただろうか? 不自然じゃなかっただろうか?

(やっぱりだれかに打ち明けた方がいいのかな)

 ホームルームが終わったあと、帰り支度をしながら考えた。たとえばありちゃん先生とか、大人のひとに。近くの交番に駆け込んだっていいかもしれない。でも。

「泉さーん」

 廊下に出ようとしたところで、教卓のところにいたありちゃん先生が声をかけてきた。

「ちょっとこの後いいかな?」

 いつもどおり優しそうだけど、有無を言わせない感じだ。わたしはちょっととまどってから「はい」と返事をして、教卓の方に向かう。

「テスト勉強があるのにごめんね。ちょっと進路指導室まで来てもらえる?」

 と、ありちゃん先生が言った。


 なにもかも夢の中で起こってる出来事みたいだ。

 そう思った。わたしの目の前にはありちゃん先生がいれてくれたコーヒーが湯気を立てていて、座っているソファは身動きするとギシギシ鳴る。そういう感覚はちゃんとあるのに、なにもかもが他人事みたいだった。いつか大人になったとき、今日のことをどんなふうに思い出すんだろう。そんなことを考えた。

「どう? お守り、効いたかな?」

 ありちゃん先生が、首をかしげながら尋ねる。

「効きました。ありがとうございます」

 少なくとも黒い影みたいなものを見る機会は減った。だからお守りは効いたんだと思う。それはいいんだけど、でも。

(先生、うちが大変なことになってるんです)

 そう切り出したらどうなるだろう。

(バスタブでお父さんが死んでて、お母さんは変なことばっかりしゃべってて、お父さんはお母さんが殺しちゃったのかと思ってたんですけど、それもよくわからなくて、この先どうなっちゃうんだろうって考えたら、警察とか怖くて呼べなかったんです。わたし、どうしたらいいですか)

 ありちゃん先生はちょっと首をかしげて、にこにこしながらわたしを見ている。今なら相談できる。先生はきっと、わたしをうそつき扱いしたり、おかしな話だと笑ったりしないと思う。真面目に助けようとしてくれるはずだ。でも。

 怖い。

「――そうか。今日の泉さん、なんだか心配ごとがありそうな顔してたから、気になってたんだ。わたしに話してみたいこととか、ない?」

 先生はわたしをまっすぐ見て話す。「もしも何かあったら、言っていいんだよ。泉さんがいいって言うまで、わたしはその話をだれにも言わないから」

 だれにも言わない、と言われて心が揺れた。警察に通報したりしないっていうことだろうか? でも、本当に死体があるってわかったら、先生だってそんな約束守っていられないだろう。

「……もしも話したくなったらで、いいですか」

 そう言うと、先生は「いいよ」と言ってくれた。

 進路指導室を出た。帰らないと。ポケットの中でお守りをにぎりしめながら早足で歩いた。


 玄関のドアを開けた。もう回し車の音は聞こえない。バスタブに猫用のトイレの砂をたくさん入れて、消臭剤も置いたのに、やっぱりいやな匂いがする。家の中は寒くて、吐いた息が白くにごって見えた。

「ただいま」

 廊下の奥に向かって声をかけると、「はぁい」と明るい声がして、お母さんがいそいそと出てきた。

「おかえりぃ、みいちゃん」

 そう言って笑う顔は、いつものお母さんとは全然違う。

 お父さんが死んだ日からおかしくなって、そのままだ。

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