07
遠回りしながらマンションにたどりついたときには、暮れかけだった空がもう真っ暗になって、指先が上手く動かないほど冷え切っていた。そのせいで鍵を取り出すときに何度も落としかけて、何度もヒヤッとしてしまう。さっきの女の人が、いつのまにかすぐ後ろに立っているような気がして仕方なかった。
ようやく鍵が開いた。わたしは急いで中に入ってドアを閉め、鍵とチェーンをかけた。
「ただいま!」
家の中は寒くて、暗かった。リビングの方からカラカラ……と音がする。まだハムスターは生きてるみたいだ。ほっとした。
お父さんもお母さんも、いないんだろうか。
廊下の電気を点け、スニーカーを脱いでスリッパにはき替える。廊下の奥にむかって「お母さん?」と声をかけた。返事はない。
だれもいないのかな……そう思いかけたけど、よく見ると玄関にはお母さんがいつもはいている靴が置いてある。それだけじゃなく、お父さんの革靴も並んでいる。
(二人ともいるんだ)
寝ちゃったのかな。でも、まだ全然そんな時間じゃない。どちらかならともかく、二人ともなんてこと、あるだろうか?
お父さんとお母さんの寝室は一番奥にある。あんなことがあったのに部屋数が少ないからって寝室はいっしょで、しかもお母さんはあてつけみたいに今までのシングルベッドを処分し、新しくダブルベッドを買った。シングルふたつより部屋が広くなるでしょ、と言われればたしかにその通りかもと思ったけど、わたしはそういうふうに決めたお母さんのことが怖かった。お母さんはお父さんのことあんなに怒ってたのに、いっしょのベッドで寝ることを強制している。お父さんがまいた種だからかわいそうだとは思わないけど、今お父さんがあんまり家に帰ってこないのは、あのベッドのせいじゃないかと思うことがある。
「お父さん?」
やっぱり返事はなかった。もう一度お母さんを呼んでみる。
「おかえり」
お母さんの声が聞こえた――ような気がした。小さな声だったから、気のせいかもしれない。どこから声がしたんだろう。
とりあえず、リビングの引き戸を開けてみた。ガラガラッという音がすごく大きく聞こえた。中はやっぱり真っ暗で、電気を点けないと様子がよくわからなかった。電灯で照らした室内にはだれもいない。ハムスターがなんにも知らないような顔をして、回し車を一生懸命回している。
隣のキッチンも見た。やっぱりだれもいない。お父さんとお母さんの寝室は、なるべくなら開けたくなかった。あとはわたしの部屋とお風呂場、それに洗面所とトイレだ。
どっちみち手を洗わなきゃならない。わたしは洗面所に向かい、ドアを開けた。
「おかえり」
ドアを開けてすぐのところで声がした。明かりを点けると、お母さんが床にべったりと座り込んでいた。
「……なにそれ」
とっさに口から出た言葉が、それだった。
お母さんは、両腕も着ている服も真っ赤だった。はだしのつま先も、みんな赤い。次の瞬間、鼻にいやなにおいが押し寄せてきて吐きそうになった。口を押さえて後ずさりしながら、なにが起きているのか探ろうとした。
開けっ放しのお風呂場のドアから、赤い液体が漏れている。ひどいにおいがする。お母さんとわたしの生理が重なったときのトイレのゴミ箱みたいなにおい。お風呂場が真っ赤だ。床もバスタブの中も全部真っ赤で、バスタブのふちに安全カミソリが置いてあって、スラックスと黒い靴下をはいた脚が突き出しているのが見える。
「みいちゃん」
お母さんがつぶやいた。
「わかる? みいちゃんのおかげでこうなったんだよ。いつかこんなふうに噴き出すって言ってた。咲坂かなえって女が、私に」
何の話かわからなかった。咲坂かなえってだれ? 立ち尽くしているわたしの前で、お母さんは頭をぐらぐらゆすり始めた。ぐちゃぐちゃになった髪の向こうに、三日月みたいな形の唇が見えた。
お母さんが笑っている。
「なったねぇ。ようやくなった。ずっとずっとずっと待ってたんだよ。始まったね。ようやく始まった。みんなこうなるよ」
気が遠くなった。
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